《とど》めた。
私はいまこの稿を終えようとするとき、その田端へ往《い》った数日後、私はまたふいと何かに誘われるような気もちで、東京に出て、ひとりで請地の円通寺を訪れた、六月のうすら曇った日のことを思い出す。
――父母の墓のまわりには、何かが、目に立つほど変っていた。
それはその墓のうしろに亡父の百カ日忌のときの卒塔婆《そとば》が数本立っているせいばかりではなさそうだった。又、このまえ妻と来たとき、あちらこちらに咲いていた樒《しきみ》の花がもう散ったあとで、隣りの墓の垣の破れかけたのにからみついた昼顔の花がこちらの墓の前まではかなげな色をして這《は》いよっているせいでもなさそうだった。
変化はむしろ私自身のうちにだけ起っていたのであろう。そのとき私はたった一人きりだった。一人きりで私がこの墓の前に立ったのは、これがはじめである。しばらく一人きりでいたかったために、寺にも寄らずに真っすぐに墓のほうに来た。そうして私はただ柵《さく》の外から苔《こけ》のついた墓を向いてじっと目をつぶっていただけである。
「おれはどうしていままでお母さんのお墓まいり位はもっとしておいて上げなかったのだろう」と私は考え続けていた。「……いつも、いくらお母さんのだって、お墓なんぞはといった気もちでいた。そういった気持で、自分がお母さんのために何をしようとしまいと、いってみればお母さんのことなど考えようと考えまいとおんなじだ、といったように、お母さんというものに安心しきっていられたのだ。だが、すべてを知ってみると、なんだかお母さんの事がかわいそうでかわいそうでならなくなる。このころ漸《ようや》っとおれにはお母さんの事が身にしみて考えられるようになってきたのだ。……」
こんな場末の汚《きたな》い寺の、こんな苔だらけの墓の中に、おまけに生前に見たこともないような人達と一しょになって、――と云うよりも、その佗《わ》びしい墓さえ、いまの私には、いわば、自分にとってかけがえのないものに思われた。
私はその墓を一巡してみた。そしてはじめて母の戒名がどこに刻せられてあるかを捜した。すると、墓の側面の一隅に「微笑院……」とあるのを見つけた。ほんとうを云うと、それを忘れていはすまいかと思ったが、その三字を認めるとすぐそれが思い出せた。その下方に大正十二年九月一日|歿《ぼつ》と刻せられてあるのが、気のせいか、私には妙に痛ましく感ぜられた。
私はいつか墓を一巡して、再び正面に立った。墓に向って左側に、一本の黄楊《つげ》の木が植えられているが、いまはその木かげになって半ば隠れてよく見えなくなっている、一基の小さな墓がある。いつか妻と二人して、どうしてその子供らしい墓だけが一つ離れて立っているのだろうといぶかしんだ奴《やつ》だが、それが私の小梅の父とおようさんとの間にできた子の墓なのであろう。何んと刻せられているかと思って、私は柵の外から黄楊の木の枝をもちあげながら、見てみたが、脆《もろ》い石質だとみえて石の面が殆《ほと》んど磨滅していて、わずかに「……童……」という一字だけが残っているきりだった。それが男の子だかも、女の子だかも、もう知るよしもないのである。――
もう誰にもかえりみられることのない、そんな薄倖な幼児の墓を私は何か一種の感動をもって眺《なが》めているうちに、ふいと、一瞬くっきりと、自分の知らなかった頃の小梅の父の、その子の父親としての若い姿が泛《うか》ぶような気がした。……
そういう若い頃からの、この一|市井人《しせいじん》のこれまでの長い一生、震災で私の母を失ってからの十何年かの淋《さび》しい独居同様の生活、ことに病身で、殆んど転地生活ばかりつづけていた私を相手のたよりない晩年、――かなりな酒好きで、多少の道楽はしたようだが、どこまでもやさしい心の持ち主だった父は、私の母には常に一目《いちもく》置いていたようである。それは母の亡《な》くなったのちも、母のために我儘《わがまま》にせられていた私を前と変らずに大事にし、一たびも疎略にしなかったほどだった。私はその間の事情はすこしも知らなかったけれど、いつも父の愛に信じきってそれに裏切られたことはなかったのだった。
その父をも晩年に充分いたわってあげることのできなかった自分を思うと、何んともいいがたい悔恨が私の胸をしめつけて来た。私はしばらくそれを怺《こら》えるようにして、父母の墓の前にじっと立ちつくしていた。
そうやって私は二三十分ぐらいその墓のほとりにいてから、漸っとそこを離れて、錆《さ》びたトタン塀《べい》のほうに寄せて並べられてある無縁らしい古い墓石を一つ一つゆっくり見てゆきながら、とうとうその墓地から立ち出《い》でた。
飛木|稲荷《いなり》の前を東に一二丁ほど往くと、そこが請地の踏切であ
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