る。私は東武電車で浅草に出ようと思って、その踏切のほうに向っていった。その場末の町らしく、低い汚い小家ばかりの立ち並んでいる間を、私はいかにも他郷のものらしい気もちになって歩いているうちに、こんどは一度、私の殆んど覚えていない生父の墓まいりをしてみるのもいいなと思った。何んでもないようにふらっと出かけていって、お墓まいりだけをして、ふらっと帰ってくる。それだけでいい。だが、その私の殆んど覚えていない生父の墓のある寺は一体|何処《どこ》にあるのかしら。(註一)
 なんでも私のごく小さい時分、一度か二度だけ、母にどこか山の手のほうの、遠いお寺に墓まいりに連れられていった記憶がかすかにある。その寺の黒い門だけが妙に自分の記憶の底に残っている。それは或る奥ぶかい路地の突きあたりにあって、大きな樹かなんかがその門の傍《そば》に立っていた。幼い私は母につれられたまま、誰れの墓とも知らずに、一しょにそれを拝《おが》んで帰ってきた。母は別にそのときも私には何も言いきかせなかった。それがその生父の墓だったのではあるまいか。あのときの、いかにも山の手らしい、木立の多い、小ぢんまりとした寺はどこにあったのやら。――そう、そう、そう云えば、たしか、そのときの往きか帰りの電車の中だったとおもう。小さな私は往きのときも、帰りのときも、その道中があんまり長いので、いつも電車の中でひとっきり睡《ねむ》ってしまっていたが、突然母にゆりおこされた。
「辰雄、辰雄、ほら、あの横町をごらん、あそこにお前の生れた家があったんだよ。……」
 そういわれて、私は睡たい目をこすりこすりあけてみた。そうして母が電車の窓から私に指《さ》して見せている横町の方へいそいでその目をやった。が、電車はもうその横町をあとにして、お屋敷の多い、並木のある道を走っていた。私はなんだかそれだけではあんまり物足らなかったが、それ以上何もきかないで、そのまま又そのお母さんにもたれながらうつらうつら睡ってしまった。……
 いま思うと私の生れたのは麹町平河町だというから、あれはきっと三宅坂《みやけざか》と赤坂見附との間ぐらいの見当になるだろう。そうとすると、私の生父の墓は青山か千駄ヶ谷あたりにあるのだろう。誰れにきいたらいいかしらと思って、私はふと麻布で茶の湯の師匠をしていたおばさんがもうかなりのお年でまだ存命していられるらしいのを思い出した。そうだ、あのおばさんだけがいまでは私の生父にゆかりのあるただ一人のかたなのだ。なんでもほんとうの妹ごだとか。私はいままで何んにも知らなかったので、ついそのおばさんにはよそよそしくばかりしていたが、そのうちに是非ともお訪《たず》ねしてみたいものだ。……
 いかにも場末らしく薄汚い請地駅で、ながいこと浅草行の電車を待ちながら、私はそんなことを一人で考え続けていた。

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註一 私の生父の墓のある寺のことは田端のおばさんもよく覚えていなかった。なんでも河内山宗春の墓があるので有名なお寺だとか云うことを知っているだけで、一度も其処《そこ》には往ったことがないそうだ。その後、私は麻布のおばさんのところにお訪《たず》ねしようとときおり思いながら、なかなか往かれないでいるうちに、その年老いたおばさんが突然|亡《な》くなられてしまわれた。私は何んとも取りかえしのつかない事をしてしまった。しかし、私の知りたがっていた生父の墓だけは、そのおなじ寺にそのおばさんも葬られることになったので、図らずもそれを知ることが出来た。その寺は高徳寺といって、やはり青山にあった。静かな裏通りの、或る路地のつきあたりに、その黒い門を見いだしたとき、ああ、これだったのかと思った。門のかたわらで樒《しきみ》などをひさいでいる爺は、もう八十を越していそうなほどの老人で、それに聞いてみたら私の生父のことなどもよく覚えていそうな気がした。しかし私はなんにも聞かずに、ただ老爺の方にしばらく目を注いだきりで、そのままその小屋のまえを通り過ぎてしまった。
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底本:「幼年時代・晩夏」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年8月5日発行
   1970(昭和45)年1月30日16刷改版
   1987(昭和62)年9月15日38刷
初出:「文學界」
   1942(昭和17)年8月号
初収単行本:「幼年時代」青磁社
   1942(昭和17)年8月20日
※初出情報は、「堀辰雄全集第2巻」筑摩書房、1977(昭和52)年8月30日、解題による。
※底本には、複数の作品の註がまとめて掲載してありましたが、ここでは、本作品に対するもののみを、通し番号を付け替えて、ファイル末におきました。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
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