に心中とまちがわれ、橋の上で人々が大騒ぎをしている間、こっそりと川上に泳ぎついて逃げ去ったという逸話などを残している位である。その頃のことかと思うが、松吉はそういう仲間たちと一しょに瓦町《かわらまち》の若い小唄の師匠のところにひやかし半分|稽古《けいこ》にかよっていたが、そのうちに松吉はその若い小唄の師匠といい仲になった。
松吉はとうとうそのおようという若い師匠と、向島の片ほとりに家をもった。そして二三年|同棲《どうせい》しているうちに、一子を設けたが夭折《ようせつ》させた。請地にある上条氏の墓のかたわらに、一基の小さな墓石がある。それがその薄倖《はっこう》な小児の墓なのであった。
松吉もはじめのうちは、為事《しごと》にも身を入れ、由次郎という内弟子《うちでし》もおいて、自分で横浜のお得意先きなども始終まわっていたが、子を失《な》くしてから、又酒にばかり親しむようになって、つい家もあけがちになった。
弟子の由次郎は、そのあいだにも、ひとりで骨身を惜しまずに働いていた。松吉も、その由次郎に目をかけ、殆《ほと》んど細工場のほうのことは任せ切りにしていた。ところが、或る夜、泥酔してかえってきた松吉は、其処《そこ》にふと見るべからざるものを見た。――
松吉はさんざん一人で苦しんだ末、何もいわずに、おようを由次郎に添わせてやる決心をした。二人のために亀戸《かめいど》の近くに小さな家を見つけ、自分のところにあった世帯道具は何から何まで二人に与えて、そうして自分だけがもとの家に裸同様になって残ったのである。……
もとより、私の母はそういう経緯のあったことは知っていたはずである。しかもなお、そういう人のところに、かわいくてかわいくてならない私をつれて再婚したのである。そこにはよほど深い考えもあったのだろうと思われる。
どんな人でもいい、ただ私を大事にさえしてくれる人であれば。――それが母の一番考えていたことであったようである。それには母がいつもその人の前に頭を下げていなければならないようでは困る。その人のほうで母にだけはどうしても一生頭の上がらないように、その人が非常に困っているときに尽くせるだけのことは尽くしておいてやる。そういう不幸な人である方がいい。――そういった母の意にかなった人が、ようやく其処に見いだされた。
勝気でしっかりとした人、私のことだとすぐもう夢中になってしまう人、――誰でもが私の母のことをそう云う。そういう負けず嫌《ぎら》いな母がおようさんのあとにくると、父は急に醒《さ》めた人のようになって、為事にも身を入れ出した。そうして小梅の家は以前にもまして、あかるく、人出入りが多くなっていった。
父も母も、江戸っ子|肌《はだ》の、さっぱりした気性の人であったから、そのまま私のことでは一度も悶着《もんちゃく》したこともないらしく、誰れの目にもほんとうの親子と思われるほどだった。それからまた、おようさんとも以前とかわらずに附き合って、由次郎にもずっとうちの為事をしてもらっていた。
小さな私だけはなんにも知らないで、いつかその由次郎にもなついて、来るとかならず肩車に乗せてもらって、用達《ようた》しにも一しょについていったりしていた。
その五つか六つぐらいの頃の私は、いまの私とはちがって、かなりな道化ものでもあったようだ。父や母につれられて、おばさんの家などに行くと、おばさんにすぐ三味線をじゃかじゃか鳴らして貰《もら》って、自分は手拭《てぬぐい》を頭の上にちょいとのせ、妙な手つきや腰つきをして、「猫じゃ、猫じゃ……」とひとりで唄いながら、皆にひと踊り踊ってみせた。そんな俗踊をいつのまにか見よう見真似《みまね》で覚えてしまったのである。
私の生父は、裁判所などに出ていても、謹厳一方の人ではなかったらしく、三味線の音色を何よりも好んでいたそうである。その血すじをひいた生父のことはもうすっかり忘れてしまって、私のことをかわいがっていてくれる新しい父や母やそのほかの人々の間で、何も知らず、ただ無心に、おばさんの三味線に合わせながら「猫じゃ、猫じゃ」を踊っていた、小さな道化ものの自分の姿が、いま思いかえしてみると、自分のことながらなかなかにあわれ深く思えてならない。……
七
雪の下のたいそう美しく咲いていた、田端の、おじさんとおばさんとの家で、私が六月の日の傾くのも知らずに聞いた自分の生《お》い立ちや私の母の話を、以上、そのままにざあっと書いてみた。
いまの私には、父の死の前後から中絶しがちになっていた小説「幼年時代」を再び取り上げて、書きつづける気もちにはどうしてもなれないので、それはそれで打ち切り、こんど改めておばさんたちに聞いた話は、此処《ここ》にはほんの拾遺のようなものとして附け加えておくに止
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