屋をはじめた。が、それも年々思わしくなくなる一方で、もう米次郎には挽回の策のほどこしようもなく、とうとう愛宕下《あたごした》の裏店《うらだな》に退いて、余生を佗《わ》びしく過ごす人になってしまった。
米次郎がその愛宕下の陋居《ろうきょ》で、脳卒中で亡くなったのは、明治二十八九年ごろだった。……
そのとき私の母は二十四五になっていた。死んだ米次郎と玉との間には、長女である私の母をはじめ、四人の女《むすめ》とまだ小さな二人の弟たちがいた。
それから私の生れるまでの、十年ちかい年月を、私の母はそれらの若い妹や小さな弟をかかえて、気の弱い、内気な人だったらしいおばあさんを扶《たす》けながら、どんなにけなげに働いたか、そしてどんなに人に知れぬような苦労をしたか、いま私にはその想像すらも出来ない。私の母を知っていた人達は、母のことを随分しっかりした人で、あんなに負けず嫌いで、勝気な人はなかったと一様に言う。なんでもおじいさんが死んでからまもなく、若い母は夜店などを出して何かをひさいだりしたこともあったという話を、まだ私の小さかったとき母自身の口から何かの折にきいたことのあったのを、私はうっすらと覚えている。
母のいもうとの中には、茶屋奉公に出ていたものもいる。芸者になって、きん朝さんという落語家に嫁いだものもいる。それから一番末の弟はとうとう自分から好きで落語家になってしまった。しかし、それらの人達はみんな早世してしまって、いまは亡い。……
私はそういう母の一家の消長のなかに、江戸の古い町家のあわれな末路の一つを見いだし、何か自分の生い立ちにも一抹《いちまつ》の云いしれず暗い翳《かげ》のかかっているのを感ずるが、しかしそれはそれだけのことである、――もしそういうものが私の心をすこしでも傷《いた》ましむるとすれば、それは私の母をなつかしむ情の一つのあらわれに過ぎないであろう。
六
土手下で小さな煙草店をやっていた私の母が、その店を廃《や》めて、小梅の父のところに片づいたのは、私が四つか五つのときだったらしい。私ははじめのうちはその新しい父のことを、「お父うちゃん」とお云いといくら云われても、いつも「ベルのおじちゃん」と呼んでいた。そうして町なかにある仁丹の看板をみつけては一人でそれを指《さ》して「お父うちゃん」と言ってばかりいるので、母たちも随分|手古摺《てこず》ったらしい。……
「ベル」というのは、その時分、尼寺のそばに住んでいたおじさんのところで飼っていた大きな洋犬の名前で、私はその犬と大の仲好しだった。自分よりもずっと大きなその犬を、小さな私はいつも「お前、かわいいね……」といって撫《な》でてやっていたそうである。そうしてその頃私は犬さえ見れば、どんな大きな犬でもこわがらずに近づいていって、「ベル、ベル」と呼んでいた。
或る日、私は新しく自分の父になる人につれられて、何か犬の出てくる外国の活動写真を見にいった。私はそれを最後までたいへん面白がって見ていた。そんな事があってから、私はその新しい父のことを「ベルのおじちゃん」というようになってしまっていたのだった。
が、私は新しい父にもそのうちなついてしまった。そうなると、もうすっかりそれを本当のお父うさんだと思い込んで、その父の死ぬ日まで、そのまま、私は一ぺんもそんな事を疑ったりしたことはなかった。
その小梅の父が母と一しょになった頃は、それまでの放逸な生活を一掃したばかりのあとで、父はひどく窮迫していたらしい。なんでもおばさんの話によると、母がはじめて向島のはずれのその家に訪れてみると、なにひとつ世帯《しょたい》道具らしいものもなくて、まるであばら家のようななかに、父はしょんぼりと鰥暮《やもめぐ》らしをしていたのだった。……
父は彫金師であった。上条氏で、松吉というのが本名である。その父武次郎は、代々|請地《うけじ》に住んでいて、上野輪王寺宮に仕えていた寺侍であったが、維新後は隠居をし、長男|虎間太郎《こまたろう》を当時江戸派の彫金師として羽ぶりのよかった尾崎|一美《かずよし》に入門せしめた。その人が師一美に数ある弟子のうちからその才を認められて、一人娘を与えられ、その跡をつぐことになった。それが惜しくも業なかばにして病歿した上条|一寿《かずとし》である。それに弟が三人あって、揃《そろ》って一寿の門に入っていたが、兄の死後にはそれぞれ戸を構えて彫刻を業とした。その一番下の弟で、寿則《としのり》といっていたのが、私の父となった人である。
松吉は若いころは家業には身を入れず、仲間のものと遊び歩いてばかりいた。随分いたずらなこともしたらしい。或《ある》夏の深夜、友だちと二人で涼をとろうとして吾妻橋の上から大川に飛び込んだところを、丁度巡回中の巡査
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