らに数年が経った。私の母は地震のために死んだ。その写真も共に失われた。――そういう今となって、不思議なことには、漸《ようや》くその二つのものが私の心の中で一つに溶け合いだしている。そしてどういうものか、よく見なれた晩年の母の俤《おもかげ》よりも、その写真の中の見なれない若い母の俤の方が、私にはずっと懐《なつか》しい。私はこの頃では、子供のときその写真の人がどうしても私の母だと信じられなかったのは、その人を自分の母と信ずるにはその人があまりに美し過ぎたからではなかったかと解している。その人がただ美しいと云うばかりでなしに、その容姿に何処《どこ》ということなく妙になまめいた媚態《びたい》のあったのを子供心に私は感づいていて、その人を自分の母だと思うことが何んとなく気恥しかったのであろう。そう云えば、その写真のなかで母のつけていた服装は、決して人妻らしいものでもなければ、また素人娘《しろうとむすめ》のそれでもなかったようだ。今の私には、それがどうもその頃の芸者の服装だったようにも思われる。そんな事からして私はこの頃では私の母は父のところへ嫁入る前は芸者をしていたのではないかと一人でひそかに空想をしているのである。――私の母の実家が随分貧しかったらしいことや、私の母の妹とか、弟とか云う人達が大抵|寄席《よせ》芸人だの茶屋奉公だのをしていたことや、私の父が昔は相当道楽者だったらしいことなどを考え合せてみれば、そんな私の空想が全然根も葉もないものであるとは断言できないだろう。
 私はしかし芸者と云うものを今でも殆《ほと》んど知っていないと言っていい。ただ少年の頃から鏡花などの小説を愛読しているし、そういう小説の女主人公などに一種の淡い愛着のようなものさえ感じているところから、或はそんなことが私をしてかかる夢を私の亡《な》き母にまで托《たく》させているのかも知れぬ。

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 私は一枚の母の若いころの写真からそんな小説的空想さえもほしいままにしながら、しかしそれ以上に突込んで、そういう母の若いころのことや、自分自身の生《お》い立ちなどについて、人に訊《き》いてまでも、それを強《し》いて知ろうとはしなかった。私は小さいときからの性分で、ひとりでに自分に分かって来ていることだけでもって十分に満足して、その自分の知っている範囲のなかだけで、自分の幼年時代を好きなように形づくって、それを愉《たの》しんでいることが出来たのだった。

        五

 おばさんはまた私に母の実家のことを仔細《しさい》に話してくれた。しかし、そのときも私の期待を裏切って、母の若い頃のことは殆んどなんにも話して貰《もら》えなかった。そのうち、何かの折にでも自然に聞き出せるかも知れないから、いまはまあそう無理には聞かないことにする。……
 母の実家は西村氏である。父は米次郎といった人で、維新前までは、霊岸島に店を構えて、諸大名がたのお金|御用達《ごようたし》を勤めていた。市人《いちびと》でも、苗字《みょうじ》帯刀を許されていたほどの家がらだったそうである。母は茅野《ちの》氏で、玉《たま》といい、これも神田の古い大きな箪笥《たんす》屋の娘であった。玉は十六の年から本郷の加賀さまの奥へ仕えていた。そうして十九のときに米次郎のところに嫁《とつ》いだが、そのときの婚礼はまだ随分はでなものだったらしい。いくつも高張提灯《たかはりぢょうちん》をかかげて、花嫁の一行が神田から霊岸島をさして練ってゆくと、丁度途中にめ組の喧嘩《けんか》があった。そこで一行は迂回《うかい》をしなければならぬかとためらっていると、それをどこかの大名の行列かとまちがえて、喧嘩をしていた鳶《とび》の者たちが急にさあっと途《みち》を開いたので、そのままその前を通ってゆくことが出来た。――そのことを又、皆はたいへん縁起がいいといって喜んだものだった。
 だが、新郎新婦の運命はそれほどしあわせなものではなかった。やがて瓦解《がかい》になった。それはたちまち若い夫婦に決定的な打撃を与えた。諸侯に貸し付けてあった金子も当分は取り立てる見込みもつかず、そこで米次郎は窮余の一策として、麻布の飯倉片町に居を移して、大黒屋という刀屋をひらいた。それがうまく当って、一時は店も繁昌《はんじょう》した。私の母しげが長女として生れたのはその飯倉であった。
 しかし、その母の生れた明治六年は、また、廃刀令の出た年である。米次郎は再び窮地に立った。丁度そのとき質屋の株を売ろうとするものがあったので、よほど米次郎の心はそちらのほうに動いたが、それには玉がどこまでも反対した。質屋という商売を嫌《きら》ったのである。そこで米次郎もやむを得ずに芝の烏森《からすもり》に移って、小さな骨董《こっとう》
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