んに手をひかれて漸っとよちよちと歩きながら、そのへんなどに、ちょっと飛石でも打ってあるような、門構えの家でも見かけると、急に「あたいのうち……あたいのうち……」といい出して、その中へちょこちょこと駈けこんでいってしまって、みんなをよく困らせたそうだ。
それからもう一つ。――その頃よく町の辻《つじ》などに仁丹《じんたん》の大きな看板が出ていて、それには白い羽のふさふさとした大礼帽をかぶって、美しい髭《ひげ》を生《は》やした人の胸像が描かれてあった、――それを見つけると、私はきまってそのほうを指《さ》して、「お父うちゃん……」といってきかなかった、漸っとそのお父うちゃんというのが言えるようになったばかりの幼い私は。……それはおそらく自分の父がそういう美しい髭を生やした人であったのをよく覚えていたからでもあったろう。それにひょっとしたら私の父が何かの折にそんな文官の礼装でもしていたところを見たことでもあって、それをまだどこかで覚えていたのかも知れない。……
長いこと脳をわずらっていた、父浜之助が遂《つい》に亡くなったときは、私ももう七八つになっていたろう。私は三つのとき、母の手にひかれたまま、あの土手の上で父とわかれてからは、ただの一度もその父には逢わなかったらしい。その父の死んだときにも、私にはもう新しい父が出来ていたので、その手前もあったのだろう、何んにも知らされなかった。継母のほうは、私が十二三になるまで存命していたようだが、その死んだのも私は知らないで過ごした。
その継母という人は、全然私には記憶がないが、病身で、いつも青い顔をした、陰気な婦人だったらしい。しかし、不しあわせといえば不しあわせな人だった。晩年は藤森とかいう自分の血すじの甥《おい》を近づけていたが、その甥は鉱山かなんかに手を出し、失敗して、それきり失踪《しっそう》してしまったそうである。
四
私は或《あ》る一枚の母の若いころの写真を覚えている。それも震災のとき焼いてしまったが、私は亡《な》くなった母のことをいろいろ考えていると、ときどきそのごく若いころの母の写真を思い浮べることがある。まだどことなく娘々していて、ちっとも私の母らしくないものだが、それだけにかえって私の心をそそるものと見える。
いまから数年ほどまえに、或る雑誌から私の一番美しいと思った女性という題でもって何か書いてくれと乞《こ》われるままに、ふとその古い写真のことを思いついて、小さな随筆を一つ書いたことがある。ほんの素描のようなものに過ぎないが、ひと頃の私の母に対する心もちがよく出ていると思うので、此処《ここ》にそれを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28] 《はさ》んでおきたいと思う。
※[#アステリズム、1−12−94]
花を持てる女
私がまだ子供の時である。
私はよく手文庫の中から私の家族の写真を取り出しては、これはお父さんの、これはお母さんの、これは押上《おしあげ》の伯父さんのなどと、皆の前で一つずつ得意そうに説明をする。そのうち私はいつも一人の見知らぬ若い女の人の写真を手にしてすっかり当惑してしまう。
いくらそれはお前のお母さんの若い時分の写真だよと云われても、私にはどうしてもそれが信じられない。だって私のお母さんはあんなによく肥えているのに、この写真の人はこんなに痩《や》せていて、それにこの人の方が私のお母さんよりずっと綺麗《きれい》だもの……と、私は不審そうにその写真と私の母とを見くらべる。
其処《そこ》には、その見知らぬ女の人が生花をしているところが撮《と》られてある。花瓶《かびん》を膝《ひざ》近く置いて、梅の花かなんか手にしている。私はその女の人が大へん好きだった。私の母などよりもっと余計に。――
それから数年|経《た》った。私にもだんだん物事が分かるようになって来た。私の母は前よりも一そう肥えられた。それは一つは、私をどうかして中学の入学試験に合格させたいと、浅草の観音《かんのん》さまへ願掛けをされて、平生|嗜《たしな》まれていた酒と煙草を断たれたためでもあった。そして私の母は、それ等《ら》の代りに急に思い立たれて生花を習われ出した。私はときおり、そういう生花を習われている母の姿を見かけるようになった。そんな事から私はまたひょっくり、何時《いつ》の間にか忘れるともなく忘れていた例の花を持った女の人の写真のことを思い出した。その写真は私の心の中にそっくり元のままみずみずしい美しさで残っていた。私はその頃は頭ではそれが私の母の若い時分の写真であることを充分に認めることは出来ても、まだ心の底ではどうしてもその写真の人と私の母とを一緒にしたくないような気がしていた。
それから更
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