梅の父なる人は、幼い私のまえに、最初からいた人ではなくって、どうも途中からひょっくり、私のまえに立ち現れてきたような気のする人なのである。
しかし、その突然自分のまえに現れた小梅の父が、自分の本当の父でないかも知れないなんぞというようなことは、私はずっと大きくなって、ことによると自分の生《お》い立ちには、何かの秘密が匿《かく》されていそうだ位のことは気のつきそうな年頃になっても、私はいっこう疑わなかった。そして先きに母だけが死んで、父と二人きりで暮らさなければならなくなってからも、私はそれをすこしも疑うことをしなかった。
私が去年結婚して信州に出立した後、おばさんが或日向島の家にたずねてゆくと、父はたいへん上機嫌で、二人の間にはいろいろ私の小さいときからの話などがとりかわされたそうであるが、その折にも、真実の父がほかにあることをこの年になるまで知らずにいる私のことを、「あいつもかわいそうといえば、かわいそうだが、まあ自分にはこんなにうれしいことはない。……」といって、それから「どうか自分の死ぬまで何んにも知らせないでおいて下さい。」と何度もおばさんに頼んだそうだった。父の病に仆《たお》れたのは、それから数日立つか立たないうちだったのである。……
私がそれまで名義上の父だとばかりおもっていた、堀浜之助というのが、私の生みの親だったのである。
広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓《きんじゅこしょう》をも勤めていたことのある人だそうである。維新後、上京して、裁判所に出ていた。書記の監督のようなことをしていたらしい。浜之助には、国もとから連れてきた妻があった。しかし、その妻は病身で、二人の間には子もなくて、淋《さび》しい夫婦なかだった。
そういう年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸の落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られるようになり、そしてそこにどういう縁《えにし》が結ばれて私というものが生れるようになったか、そういう点はまだ私はなんにも知らないのである。――ともかくも、私は生れるとすぐ堀の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町《こうじまち》平河町にあった。そして私はその家で堀夫婦の手によって育てられることになり、私が母の懐を離れられるようになるまで、母も一しょにその家に同居していた。しかし、私がだんだん母の懐《ふところ》を離れられるようになって来てからも、母はどうしても私を手放す気にはなれなかった。それかといって、いつまでも母子《おやこ》してその家にいることはなおさら出来にくかった。
とうとう母はひとり意を決して、誰にも知らさずに、私をつれてその家を飛び出した。私が三つのときのことである。丁度その頃堀の家には親類の娘で薫《かおる》さんという人が世話になっていた。その薫さんが私の母贔屓《ははびいき》で、すべての事情を知っていて、そのときも母の荷物をもって一しょについて来てくれた。麹町の家を出、母が幼い私をかかえて、ひと先《ま》ず頼っていったのは、向島の、小梅の尼寺の近所に家を持っていたいもうと夫婦――それがいまの田端のおじさんとおばさんで――のところだった。漸《ようや》っとその家に落ちついて、まあこれでいいと思っていると、突然薫さんが癪《しゃく》をおこして苦しみだした。それがなかなか快《よ》くならず、いつ一人で帰れるようになるか分からなかったので、とうとう役所に電話をしてすべてを浜之助に告げた。浜之助はすぐ役所から飛んできた。それが小梅のおばさんの家に浜之助のきた最初であり、また最後であった。夕方、ようやく薫さんの癪もおさまり、浜之助が連れもどることになって、皆して水戸《みと》さまの前まで送っていった。そして土手のうえで、母と私とは、薫さんを伴った父と分かれた。
なんでも私はたいへん智慧《ちえ》づくのが遅くって、三つぐらいになってもまだ「うま、うま……」ということしか言えなかったのに、その夕方、おばさんの家で父に逢《あ》うと、私はとてもよろこんでしまって、そのとき生れてはじめて「お父うちゃん……お父うちゃん……」と言えるようになった。よっぽどそんなところで思いがけず父に逢えたのがうれしかったものと見える。しかし、それが私のその父に逢うことの出来た最後であったそうだ。
それからまもなく、その父浜之助は、脳をわずらって、もう再び世に立たない人となってしまったのである。
私の母は、それまで弟たちのところにいたおばあさんに来てもらって、土手下の、水戸さまの裏に小さなたばこやの店をひらいた。
いままで私たちのいた麹町の堀の家は、立派な門構えの、玄関先きに飛石などの打ってあるような屋敷だった。それだものだから、そうやって土手下なんぞの小さな借家ずまいをするようになってからも、三つ四つの私は母やおばあさ
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