知つてゐて、さうすることを忘れぬやうに心がけてゐたのであつたが、さういふ姿勢のままで彼女は自分の顏をスワンから離すために全力を出してゐるやうに見えた。あたかもそれが何かの見えない力によつてスワンの方へ引き寄せられてでもゐるかのやうに。そしてさういふ努力もとうとう空しかつたかのやうに彼女がその顏をスワンの脣の上に落してしまはないうちに、それを少し離して、一瞬間、兩手で支へてゐたのはかへつてスワンの方であつた。それは彼が、丁度、自分の非常に可愛がつてゐる息子の授賞式に與るべく招ばれてゐる兩親のやうに、そこに駈けつけ、あんなにも長い間あこがれてゐたその夢の實現を目のあたりに見ようとする瞬間を、出來るだけ自分の心に取つて置きたかつたからだ。恐らくまたスワンは、まだ自分のものにしてゐない、まだ接吻をしてゐない、そしてさういふものとしてはもう見納めになるであらう、このオデットの顏の上に、丁度その出發の日に、永久に立ち去らうとする風景を記憶して置かうとする、あの旅人のやうな眼ざしを注いでゐたのにちがひない。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]「スワン家の方」※[#ローマ数字2、1−13−
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