に行つてそれが見つからずに、バトラアを頭に入れて歸つてきたのはすこし妙な氣持であつた。僕は家へ歸つてからも、なんだかそれが氣になるので、手許にあつたバトラアの「ノオト・ブック」を開いて見てゐるうちに、僕は圖らずも興味深い數頁を發見した。その中でも一番面白いと思つたのは、彼の友人がある日生爪を剥がして突然子供の時分にそれと同じ經驗をした時のことをそれからそれへと思ひ出す話を書いた「剥がした爪」といふ一章である。これを引用するとすこし長くなりさうなので、ここには省略するが、例へば次のやうな簡單な話でもいい。

[#ここから1字下げ]
 ある朝、私は「サウル」の中の[#ここから横組み]“On Sweetest Harmony”[#ここで横組み終わり]の曲を口ずさんでゐた。ジョンがそれを聞いて私に言つた。「君は何故その曲を口ずさんでゐるのか知つてゐるかい?」
 私は知らないと答へた。すると彼は言つた。
「二分ばかり前、僕が[#ここから横組み]“Eagles were not so swift”[#ここで横組み終わり]を口ずさんでゐるのを君は聞きはしなかつたか?」
 私はどうもその覺えがないし、
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