のうちの最も斬新な一つは、それは彼がその小説のなかに時間の經過する感じを與へようとしたためであることが解る。再びさつきのルタン紙上のインタアヴィユに戻るが、その中でかういふことを云つてゐる。
「汽車がうねりくねつた線路を走つてゐる間、或時は右に、或時は左に見える、あの小さな町の中にでもゐるやうに同じ人間が、まるで入れ代り立ち代り現はれてくる別々の人間であるかのやうに讀者に印象されるほどの、ひとつ人間のさまざまな姿は――その爲にのみ――時間の過ぎてゆく感じを與へるものだ。」
 つまり、現實の中でも屡※[#二の字点、1−2−22]起ることであるが、いま自分の前にゐる一人の人間が、ちよつと時間が經ちさへすれは、それとはまるで異つた人間のやうに印象されてくることがある。それがわれわれには如何にも時間の過ぎつつあるといふことを感じさせる。――プルウストはさういふ「強い、ほとんど無意識的の印象」に目をつけて、それを彼の人物を描く方法に取り入れたのだ。例へば、「スワンの戀」のなかに描かれてゐるオデット・クレッシイだが、あれくらゐ時間の過ぎるにつれて刻々に變化する性格と容姿をもつた、少々妖精じみたところさへある女性は、ちよつと類が無いではないか。なるほど、オデットは何處かしらモリエェルの書いたセリメエヌに似てゐないことはない。まあ、ああいつたタイプの女にちがひない。しかし、それだつても、ボッチチェリイの描いたジェトロの娘に彼女が似てゐると云ふより以上のことではない。そしてさういふ聯想は、唯、プルウストが彼の人物を生かすことの出來た手腕において、さういふ大家たちの間に伍して少しも遜色のなかつたことを證明するやうなものであらう。
 プルウストの人物の描き方については、さういふ際立つた特徴に次いで、もう一つの特徴が認められる。そのもう一つの特徴といふのは、――僕はこの間、コンブレエの教會での結婚式におけるゲルマント公爵夫人の顏をプルウストが描寫してゐる一節を讀み返しながら、意外に思つたのだが、そこをずつと前に初めて讀んだ時から、僕は何時の間にか自分勝手にその公爵夫人の顏を世にも美しいものに作り上げてしまつてゐたと見える。だが實際は、そこには、むしろ苛酷な位の筆で、ことさらにその「高い鼻、するどい眼、赤らんだ頬」を目立たせるやうな工合に、決して美しい顏としてでなく、夫人の顏が描かれてあるに過ぎないのだ。僕はちよつと欺されてゐたやうな氣がした。「これは僕がずつと前に讀んだことのあるゲルマント夫人の顏[#「ゲルマント夫人の顏」に傍点]ぢやない。」――だが、僕はその一節をすつかり讀み畢へてその本を開ぢながら、もう一度その夫人の顏を宙に浮べて見た。すると、どうだらう。今度は、その高い鼻、碧い眼、赤らんだ頬がまだ僕の眼前に髣髴してゐるにもかかはらず、その夫人の顏はだんだん前に増して美しく思はれ出したのだ。「さう、やつぱり僕の知つてゐたゲルマント夫人だつたんだ!」――さうひとりごちながら、ははあ、こんなところにも、プルウストの作中人物を解く二つの鍵があるのかも知れぬと思つた。
 シャルル・デュ・ボスが、オペラの棧敷の中で捕まへてゐるのも、さういふゲルマント公爵夫人の感嘆すべき肖像畫の一つだ。

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 彼女(ゲルマント公爵夫人)を、薄あかりを浴びて物語めいてゐる他の娘たちよりも、ずつと上位に置いてゐるその美しさといふものは、彼女の頸や、肩や、腕や、胴などの上に、はつきりと、誰にもすぐ分るやうに、見えはしなかつた。そしてさういふ、彼女の微妙な、未完成な線は、われわれの目がそれを引き延ばさずには居られない、見え難い、不思議な線の正確な出發點であり、暗闇の中のスクリインの上に完全な姿となつて投影されてゐるスペクトルのやうな、その婦人のまはりでぴちぴち跳つてゐる線のおのづからなる塊りであつた。
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[#地から2字上げ]「ゲルマントの方」※[#ローマ数字1、1−13−21]

 さういふ、われわれの目がそれから現實的《レアル》な線を引き延ばさずにはゐられないやうな、不思議な、見え難い線、そこにこそ、プルウストの目のみならず、彼の精神が絶えず追究してゐたところの實驗があるのだ、とシャルル・デュ・ボスは説いてゐるのである。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 なんだかすこし尻切蜻蛉のやうだが、ここいらで一度ペンを置く。が、僕は君にもつともつとしやべりたいことがあるのだ。僕はプルウストに關する著書が後から後からと出るのに驚いてゐたものだが、この調子なら僕にもそのうち一册の書物位は書けさうな氣がする。が、今日はもうへとへとに疲れた。當分僕のプルウスト熱はさめさうもないから、どうぞ次の僕の手紙を待つてゐて呉れたまへ
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