フ「アプロクスィマシオン」の中の原文からの引用の豐富なプルウスト論を讀んで、非常に興味を感じ出し、それから一息に七册ばかり讀み通してしまつたと白状してゐる。(シャルル・デュ・ボスのそのプルウスト論は僕も讀んで見たが面白いものだつた。)――とにかく本場の佛蘭西人さへプルウストには手古摺つてゐるらしいので大いに僕も意を強くする。
 數日前、僕は或る場未の古本屋からN・R・Fのジャック・リヴィエェル追悼號を十錢で掘出してきたが、その中にリヴィエェルが何處かでやつたプルウストに關する講演の原稿が載つてゐるので、早速讀んで見たが、リヴィエェルもやはり平素音樂的な文體が好きだつたので、プルウストの、「まるで引き伸ばして頁の隅々にピンで留めたやうな文體」には散々惱まされたことを告白してゐる。後年あれほどのプルウスト贔屓になつたこの人までが、それなのだからね。
 このリヴィエェルのプルウスト論、それにさつき擧げたシャルル・デュ・ボスの奴とが、先づ、僕の讀んだもののうちでは、プルウスト論の雙璧だらうね。これ等に此べると、バンジャマン・クレミユだとか、レオン・ピエェル・カンなどのものはすこし落ちるやうだ。――が、君に借りてきたロベェル・ドレィフュスの囘想記のなかで僕はひよつくり面白い一節を見つけた。プルウストがその第一作、「スワン家の方」を世に問うた時、ルタン紙の記者が早速彼を訪問して彼に感想を乞うた。そのときの談話筆記が、そのまま其處に再録されてあるのだ。これは掘出物だと思ふ。――僕はそれを讀むまでは、プルウストの批評といへば、かならず時間を論じ、ベルグソニスムを論じ、或は無意識を論じてゐるのを、これは一つの流行かと思つてゐたが、何んとその流行の創始者が當のプルウストであるとは知らなかつた。で、そのマニフェスト(?)なるものはどういふものかと云ふと、先づ、彼は彼の厖大な小説を分册にして出さなければならぬことを遺憾とし、「自分は今日のアパアトメントには大きすぎる絨毯をもつてゐるので、それを切斷すべく餘儀なくされてゐるものだ」と云つてゐる。さて彼は續けて云ふ。「平面幾何學といふものに對して、立體幾何學[#「立體幾何學」に傍点]といふものがあるやうに、自分にとつては、小説は平面心理學であるのみならず、立體心理學[#「立體心理學」に傍点]なのである。(この譯語はいささか妥當でない。前者の 〔la ge'ome'trie dans l'espace〕 といふ術語に對して la psychologie dans le temps といふ新しい術語を使用してゐるのだが適當な譯語が思ひつかないので假りにかう譯す。)――時間の見えざる實在、それを私は孤立させようと試みるのだ。そのためには經驗が持續してゐることが必要だ。」それで彼の小説は長ければ長いほど完全に近くなるといふ訣なのだ。そして更に續ける。「自分が希望するのは、自分の小説のおしまひの方で、この小説の始まりのところでは全然別箇の世界に住んでゐる、さまざまの人物の間のごく小さな事件が、時間の經過した結果として、あのヴェルサイユ宮殿の緑青のついた鉛のもつてゐるやうな美しさを所有するやうになることだ。」――これは例へば、第一卷の「スワン家の方」あたりではまだ全然別箇の世界に屬するものとして作者から示されてゐるスワン孃とサン・ルウとが、最後の卷になつて(それもごく自然な順序をたどりながら)遂に結婚するに至ることなどを暗示してゐるのだらうが、まあ何といふ遠大な計畫をたてたことか! 僕等なんかだつたらたとへさういふ構想を思ひついたにしろ、とてもそれに取りかかつてその十分の一だけでも書き上げる根氣すらなささうだ。第一、誰も相手になぞしてくれまい。それはプルウストだつて、――最初の一卷「スワン家の方」を出しただけでは、そんなことを世間にいくら言つても、誰にも聞いて貰へさうもないことは知つてゐただらう。事實、このルタン紙上の一文はその當時は一笑に付せられたらしい。だが、彼はそれから十年間といふもの、あの有名なコルク張りの病室に閉ぢこもつたきり、死の直前まで默々と仕事を續けて、遂にそれを全部完成して了つたのだ。リヴィエェルの所謂「彼の宿命のごとく思はれる受動的《パッシイフ》なるものを能動的《アクティフ》なるものに換へんとする努力」はかくして成就されたのだ。
 僕がいまちよつと引用したリヴィエェルの言葉はなかなか面白いだらう。が、これはもつと説明する必要がある。それはこの次ぎの手紙ででもゆつくり書かう。今は、折角觸れかかつたのだから、もうすこしプルウストに於ける時間の問題から離れずにゐよう。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 プルウストがその作中人物を描く方法には、極めて多くの獨創的なものがあるが、そ
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