。左樣なら。
二
[#地から2字上げ]七月十日
この間僕は本郷の古本屋でルノアァルの素ばらしい畫集を見つけた。そしてどうしてもそれが欲しくてたまらなくなつて、昨日、とうとうそれを買つてきた。
僕の買つた畫集は一九一三年、巴里の Bernheim−Jeune 刊行のものだ。六百部の限定版。金が無かつたので、僕は仕方なしにそれまで大事にしてゐたデュフィとモディリアニの畫集を賣つてやつとそれを手に入れた。
それほど僕はこのルノアァルの畫集が欲しかつたのだ。またしても、ここにプルウストの影響があるらしい。
それは丁度、僕が昔コクトオに熱中してゐるうちにいつかピカソやキリコの繪を愛し出したのによく似てゐる。僕はこの頃プルウストのおかげですこし頭が古くなつたのか、どうやら印象派の畫家たち――ことにマネエやルノアァルやクロオド・モネエの繪が非常に好きになつて來たやうだ。マネエなんかも好い畫集があつたら何とでもして買て來るだらう。ところで、こんな工合に僕がコクトオを通してピカソやキリコの繪に興味を持つたり、プルウストの影響でルノアァル等が好きになつたりするといふことは、それを裏がへしにして考へて見ると、コクトオはピカソやキリコ等の畫家に、そしてプルウストは印象派の畫家たちに多くのものを負うてゐるやうなことになりはしないだらうか?
僕は何處でもいいからプルウストの一頁を開けて見よう。例へばここに、かういふ一節がある。
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私はエルスティルの水彩畫の中でこれらのものを見てからといふもの、私はこれらのものを現實の中に再び見出したく思ひもしたし、又、何か詩的なものとしてこれらのものを愛するやうにもなつたのである。……まだ横に置かれてあるナイフのでこぼこな面《おもて》、日光がその上に黄いろい天鵞絨を張りつけてゐる放り出されたナフキンのふくらんだ突起、その形の氣高い圓味をかくも美しく見せてゐる半分|空虚《から》になつたコップ(その厚いガラスの底の透明なことはまるで日光を凍らしでもしたやうだ)薄暗いなりに照明《あかり》できらきらしてゐる葡萄酒の殘り、固體の移動、照明のための液體の變化、半分減つた果物皿の中で緑から青へ、それからまた青から金へと移る李《すもも》の變化、卓の上に擴げられた布のまはりに日に二囘は坐りにやつてくる年老いた椅子たち、(その卓の上では牡蠣の貝殼のなかに、小さな石の聖水盤のなかにのやうに、數滴の水が殘つてゐる)――かういふ今まではこんなものの中に美があるとは思ひもしなかつたやうな、もつとも日常的な事物のなかに、「靜物」の深味のある生のなかに、私は美を發見しようと試みるのであつた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]「花さける少女の影に」※[#ローマ数字2、1−13−22]
印象派の、まるでクロオド・モネエか何ぞの繪でも見てゐるやうな感じがしないか。――僕はプルウストをベルグソンやフロイドに結びつけて考へようとする人達をよく見かけるが、僕にはプルウストは、さういふ哲學者や心理學者たちよりもずつと深い暗示を、これら印象派の畫家たちから得てゐるやうに思はれるのだ。
※[#アステリズム、1−12−94]
しかし、さういふのは僕がベルグソンやフロイドの著書をあまり讀んだことがないからかも知れない。もつとベルグソンやフロイドを讀んだら(そしてそれを讀みたいと思ふ欲望はこの頃しきりに起るのだけれど)、さういふ議論もうなづけるかも知れない。フロイドの方は知らなかつたらしいが、プルウストは若い時分にベルグソンをかなり熱心に讀んでゐたやうである。そして自分でも、この前の手紙に引用したルタン紙のインタアヴィユの中で、自分の小説を「ベルグソニスムの小説」と呼んでも恥しくないと言明してゐる。唯、それにかういふ訂正をつけ加へてゐる。「しかし、それは正確とは云へない。何故なら、自分の作品は無意的記憶(〔la me'moire involontaire〕)と有意的記憶(〔la me'moire volontaire〕)との差別によつて支配されてゐるのだから。この差別はベルグソン氏の哲學に現はれなかつたのみならず、むしろそれと矛盾さへしてゐるのだ。」
僕はベルグソンをよく知らないので、さういふプルウストの意向を充分に理解することは出來ない。だからそれに對する批評は控へよう。そして此處はただ、プルウストの謂ふところの「無意的記憶」なるものにちよつと觸れて見よう。プルウストはそれを自分でかう説明してゐるのである。
「私には、有意的記憶――それは就中理智の記憶だが――なるものは、過去の眞實ならざる面をしか與へてくれないやうに思へる。が、昔とはまつたく異つた環境の下で、ふと思ひ出さ
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