れた或る匂とか、或る味とかが、思ひがけずわれわれに過去を喚び起すときは、われわれはさういふ過去が、われわれの有意的記憶が下手な畫家のやうに眞實ならざる色彩をもつて描いた過去とは、如何に相違してゐるかを理解する。諸君はすでにこの最初の卷「スワン家の方」において、話者がこんな話をするのを御覽になる筈だ、――「私」(この私ではない)が突然、マドレエヌの一片の落してあるお茶の一口の味の中に、忘れてゐた多くの年月、庭園、人々を思ひ出すといふ話を。勿論、彼はそれを有意的に思ひ出すことも出來ただらうが、その場合にはそれ獨得の色彩もなければ魅力もないのだ。そして作者が彼をして云はしめ得たのは、薄い紙片を茶碗のなかに浸すとすぐにそれが水中に擴がり、形をとり、花に變ずる、あの日本の小さな遊戲でのやうに、さまざまな人物、庭園のすべての花、ヴィヴォンヌ河の睡蓮、村の善良な人々や彼等の小さな家々、教會、コンブレエとその近郊、それらすべてのものが、はつきりした形をとりながら、その茶碗の中から町となり庭となつて現はれたといふことだ。」
ベルグソンがかういふ「記憶」の問題をどう取扱つてゐるかと云ふことを知れば一層興味がありさうに思へるが、僕は殘念ながらこの問題に今は立入れない。しかし、ベルグソンと云へば、僕は、數年前澄江堂の藏書を整理してゐるうちに、ふとベルグソンの「形而上學序説」の英譯本の餘白に見出した數行の書入れを思ひ出す。なんでもベルグソンの哲學は「美しい透明な建築を見るやうな感じだ」と云ふやうな意味が記されてあつたやうに記憶してゐる。そして僕は長いことこの芥川さんの言葉を忘れてゐたのであるが、最近プルウストを讀み出してゐるうちにひよつくりそれを思ひ出した。さういふ全體の感じなどに、或は、プルウストとベルグソンとは何處となく一味相通じたところもあるのかも知れない。
ある日、僕はもう一度その書入れを見たいと思つて、澄江堂に出かけて行つた。しかし書棚をいくら探して見てもその本はとうとう見つからなかつた。が、その代りに僕はサミュエル・バトラアの「Unconscious Memory」といふ本を見つけた。ちよつと手にとつて見ると、ハルトマンの無意識哲學などを論じたものらしかつた。僕はいまバトラアまで讀んで見る氣はしないので、一目見たきりで再びその本を元のところに入れて置いた。ベルグソンの本を探し
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