に行つてそれが見つからずに、バトラアを頭に入れて歸つてきたのはすこし妙な氣持であつた。僕は家へ歸つてからも、なんだかそれが氣になるので、手許にあつたバトラアの「ノオト・ブック」を開いて見てゐるうちに、僕は圖らずも興味深い數頁を發見した。その中でも一番面白いと思つたのは、彼の友人がある日生爪を剥がして突然子供の時分にそれと同じ經驗をした時のことをそれからそれへと思ひ出す話を書いた「剥がした爪」といふ一章である。これを引用するとすこし長くなりさうなので、ここには省略するが、例へば次のやうな簡單な話でもいい。
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ある朝、私は「サウル」の中の[#ここから横組み]“On Sweetest Harmony”[#ここで横組み終わり]の曲を口ずさんでゐた。ジョンがそれを聞いて私に言つた。「君は何故その曲を口ずさんでゐるのか知つてゐるかい?」
私は知らないと答へた。すると彼は言つた。
「二分ばかり前、僕が[#ここから横組み]“Eagles were not so swift”[#ここで横組み終わり]を口ずさんでゐるのを君は聞きはしなかつたか?」
私はどうもその覺えがないし、それに私がその合唱を自分でやつたのはよほど昔のことだつたから、私がそれを意識的に認めてゐたとは考へられないが私がそれを無意識的に認めてゐたことは、私がそれの次にくる[#ここから横組み]“On Sweetest Harmony”[#ここで横組み終わり]を口ずさんでゐたことからして明瞭である。
[#ここで字下げ終わり]
バトラアは、かういふ「無意識的なるもの」が我々の生の根元になつてゐることをハルトマンと共に言ひたいのであらう。――少し道草を食つてしまつたが、プルウストを論じてバトラアにまで及んだ者は、遺憾ながら、僕が最初の男ではない。バトラアの「ノオト・ブック」の中でそんな發見をして僕は少し得意になつてゐたら、シャルル・デュ・ボスが既にそのプルウスト論の中で、この二人を此較しつつ論じてゐたのであつた。そしてこの分析好きの批評家は、其處でプルウストとバトラアとを同系統の分析家として取扱つてゐるのである。しかし「The Way of All Flesh[#「The Way of All Flesh」は斜体]」の作者はともかくも、プルウストをそのやうな分析家として解釋するのは、ちよつと僕に
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