(その卓の上では牡蠣の貝殼のなかに、小さな石の聖水盤のなかにのやうに、數滴の水が殘つてゐる)――かういふ今まではこんなものの中に美があるとは思ひもしなかつたやうな、もつとも日常的な事物のなかに、「靜物」の深味のある生のなかに、私は美を發見しようと試みるのであつた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]「花さける少女の影に」※[#ローマ数字2、1−13−22]
印象派の、まるでクロオド・モネエか何ぞの繪でも見てゐるやうな感じがしないか。――僕はプルウストをベルグソンやフロイドに結びつけて考へようとする人達をよく見かけるが、僕にはプルウストは、さういふ哲學者や心理學者たちよりもずつと深い暗示を、これら印象派の畫家たちから得てゐるやうに思はれるのだ。
※[#アステリズム、1−12−94]
しかし、さういふのは僕がベルグソンやフロイドの著書をあまり讀んだことがないからかも知れない。もつとベルグソンやフロイドを讀んだら(そしてそれを讀みたいと思ふ欲望はこの頃しきりに起るのだけれど)、さういふ議論もうなづけるかも知れない。フロイドの方は知らなかつたらしいが、プルウストは若い時分にベルグソンをかなり熱心に讀んでゐたやうである。そして自分でも、この前の手紙に引用したルタン紙のインタアヴィユの中で、自分の小説を「ベルグソニスムの小説」と呼んでも恥しくないと言明してゐる。唯、それにかういふ訂正をつけ加へてゐる。「しかし、それは正確とは云へない。何故なら、自分の作品は無意的記憶(〔la me'moire involontaire〕)と有意的記憶(〔la me'moire volontaire〕)との差別によつて支配されてゐるのだから。この差別はベルグソン氏の哲學に現はれなかつたのみならず、むしろそれと矛盾さへしてゐるのだ。」
僕はベルグソンをよく知らないので、さういふプルウストの意向を充分に理解することは出來ない。だからそれに對する批評は控へよう。そして此處はただ、プルウストの謂ふところの「無意的記憶」なるものにちよつと觸れて見よう。プルウストはそれを自分でかう説明してゐるのである。
「私には、有意的記憶――それは就中理智の記憶だが――なるものは、過去の眞實ならざる面をしか與へてくれないやうに思へる。が、昔とはまつたく異つた環境の下で、ふと思ひ出さ
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