プルウストの文體について
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)莢《さや》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#アステリズム、1−12−94]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔de'ferlait〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 散文の本質といふものは、自分の考へをどんな風にでも構はずに表現してしまふところにある、と言つてもいいやうであります。スタンダァルにしろ、バルザックにしろ、さういふ意味での、本當の散文家でありました。それから、いまお話ししようとするプルウストも、さういふ散文家の最もすぐれた一人であります。
 プルウストの文體は、一見しますと、いかにも書きつぱなしのやうで、混亂してゐて、冗漫に見えるのであります。しかし、それだからと言つて、その文體そのものを非難する訣には行きません。プルウストの場合には、その驚くべき冗漫さも已むを得ぬと我々に首肯せしめるだけの充分な理由があるからであります。「スワン家の方」の何處でもいいから開いて御覽なさい。例へば、ここにアスパラガスを描寫した數行があります。
[#ここから1字下げ]
 私は、女中がいま莢《さや》を剥いだばかりの小豌豆が、テエブルの上に球ころがしの緑色の球のやうに澤山ならんでゐるのを見ようと思つて立ち止つた。しかし私がうつとりしたのはアスパラガスの前だつたのだ、――それはすつかり群青色《ウルトラメエル》と薔薇色とに濡れてゐて、その穗先は葵色《モオヴ》と空色とにうつすら染まりながら、まだ畑の土のこびりついてゐるその先端に行くにしたがつて漸々に、天上の虹のやうに暈《ぼ》かされてしまつてゐた。さういふこの世ならぬ色合《ニュアンス》のせゐか、私にはそのアスパラガスが、何んだか或る微妙な生物が面白半分にそんな野菜に變身してゐるやうな氣がし、そしてその變裝(食べようと思へば食べられる、硬い肉の)ごしにまるであの曙の生れようとしてゐるやうな色合、あの虹の下描きのやうな色合、青味を帶びた夕暮れの消えんとしてゐるやうな色合となつて、その風變りなエッセンスが――それを晩飯に食べた晩は、夜中ずつと、シェクスピアの夢幻劇《フェアリイ》みたいな詩的でばかばかしい笑劇《ファース》でも演ぜられてゐるかのやうに、私の尿瓶を香水瓶に變へてしまふところの、それほど風變りなエッセンスが、そのうちに認められるやうに私には思はれた。
[#ここで字下げ終わり]
 皆さんに出來るだけお解り易いやうにと思つて大變意譯をしましたので、原文をひどく傷つけやしなかつたかと恐れてゐますが、――こんなお粗末な飜譯で見ましても、ともかくも、このセンテンスが非常に長いといふことだけはお解りになるでせう。一度讀んだきりでは、恐らく何が何やらお解りになりますまい。三度、四度と繰り返し讀んでゐるうちにやつとその意味が掴めるやうになる。そして初めて何んといふ豐富な形象《イマアジュ》がこの短い章句の中にぎつしりと詰め込まれてゐるかに驚きます。(こんな長たらしいセンテンスは殆ど毎頁に大きく寢そべつて居るのです。)――御覽のとほり、アスパラガスの描寫は唯二箇のセンテンスで了つてゐまして、それは豌豆のことを書いた比較的に短いセンテンスに先立たれてゐます。いきなりアスパラガスの描寫を始めずに、先づ田舍家の臺所に這入りこんだ少年の「私」が、テエブルの上に轉がつてゐる豌豆を見ようと思つて立ち止りながら、それからふとその傍にあつたアスパラガスに目を止め、思はずそれにうつとりと見入る風に運ばれてゐます。さういふ不意打ちによつて、その少年のみならず、読者にもそのアスパラガスの美しさを一層生き生きと感じさせる。――かう云ふところにも、プルウストの常套的な手法の一つがあります。……で、そのアスパラガスを描かんとするや、先づその全體の色調《トオン》を述べます。それから、徐々にその穗先の細かなニュアンスに移つて行きます。と同時に、その獨得なニュアンスが一齊に喚び起すさまざまな記憶(曙の色合、虹の色合、夕暮れの色合)、そしてその一方では又、それを食べた晩のシェクスピアの夢幻劇のやうな記憶(匂ひの)までが其處に展開されてゐる。――かういふ工合に、プルウストは、一瞬間の感覺の喚び超すあらゆるものを殘らず、手荒いくらゐに、一つのセンテンスの中に一緒くたに縛りつけてしまひます。が、若しプルウストがそれだけのことをしかしなかつたのなら、彼の作品は遂に印象派の畫家たちの仕事を單に文字の上でしたのに過ぎなかつたでせう。が、彼の作品がさういう印象派以上の何物かであり得ましたのは、――
 此處で、私はプルウストの友人のある音樂家の語つた彼の逸話を插入することを許して貰ひます。その音樂家の話によりますと、ある田舍の別莊に彼と一緒に招ばれたときのこと、その庭園を二人で散歩中、突然彼は一本の薔薇の木の前に立ち止つたきり、その友人のことなど忘れてしまつたやうに、いつまでも、顏をしかめたまま、それを見つめ續けてゐたさうであります。さういふ殆ど傍若無人と言つていいほどな、そしてその當人自身をも苦しめるやうな、何物にか強制されてゐるかに見える模索が、こんなアスパラガスのやうなものの前でもなされてゐることを諸君も既にお氣づきになつてゐるだらうと思ひます。プルウスト自身も、さういふ彼の倦まざる模索を、小説の終りの方で、こんな風に説明してゐます。「私の感じたものを薄くらがりから抽き出して、それを何か精神的に同値のものに置き換へなければならないのだ。」そしてさういふ感覺に瞬間的に訴へられるもの、云はば泡沫にも似たものから、もつと永遠性のある、何か精神的なものを抽き出さうとする、さういふプルウストの模索こそ、彼の作品を單なる印象主義のそれから切り離してゐると言はなければなりません。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 もう一つ、「スワン家の方」から引用して見ませう。今度はリラの花の描寫です。
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 リラの季節もその終りに近づいてゐた。二三の花はまだ彼等の花のデリケエトな氣泡[#「氣泡」に傍点](bulles)を葵色《モオヴ》の高い枝付燭臺のやうに噴出[#「噴出」に傍点](effusaient)させてゐたけれど、つい一週間前まではその香ばしい泡[#「泡」に傍点](mousse)が逆卷いてゐた[#「逆卷いてゐた」に傍点](〔de'ferlait〕)それ等の葉の多くの茂みの中では、空虚《うつろ》な、ひからびた、香りのない泡[#「泡」に傍点](〔e'cume〕)が、ちぢまり、黒ずみながら、萎んでゐた。
[#ここで字下げ終わり]
 これはクルチウスといふ獨逸の批評家が「ここで、プルウストは、比喩の連絡によつて、我々にリラの實體[#「實體」に傍点]そのものを目に見えるやうにさせてゐる」と言つて激賞してゐる一節であります。クルチウスが説明しますには、「先づ、植物の生長のリズムが「噴出する」(effuser[#「effuser」は斜体])といふ言葉によつて我々に與へられる。それはまことに「葵色の高い枝付燭臺のやうに」輝かしく見える。それから、小さな星状の花が、水面に生れる「氣泡」(bulle[#「bulle」は斜体])に比較されつつ示される。」(私の飜譯では、それ等の此喩の順序が逆になつてゐますが、これは已むを得ません。)それから、すべての比喩が岸邊に戲れる波に持つて行かれてゐます。(「逆卷く」(〔de'ferler〕[#「〔de'ferler〕」は斜体])「泡」(mousse[#「mousse」は斜体])「泡」(〔e'cume〕[#「〔e'cume〕」は斜体])――プルウストは、彼自身でも、「フロオベルのスタイルについて」といふエッセイの中で、「自分は比喩のみがスタイルに或種の永遠性を與へ得ると思ふ。」と述べてゐますが、これらの海の要素から借りて來た一聯の比喩が、いかにリラの實體そのものを我々の目に見えるやうにさせるのに效果的であるか、これは全然リラの花なんといふものを知らない我々をも、それを知つてゐるかのやうに樂しませてくれるのでも知られます。そこにこそ藝術上の創造があるのであります。
 クルチウスは更らに、これらの章句のリズムの素晴らしさを説明してゐますが、それは原文で味つていただくより仕方がありませんし、それは私などの持つてゐる語學力では、なかなかその妙味はわかりません。――しかし、プルウストが、どんなにさういふ章句のリズムに注意してゐたかは、彼の友人の一人が語つてゐる次ぎのやうな逸話によつても解りませう。
 プルウストは、ある眞夜中に(それは彼が何時も友人を訪問する時間でしたが)もう寢てゐたその友人のところに訪ねて來ました。さうしてそんな遲い訪問をいかにも慇懃に言ひ譯をしながら、佛蘭西語で sans rigueur[#「sans rigueur」は斜体](嚴しくなく)といふのを伊太利語ではどういふか、その正確な發音法を教へて貰ひたいと頼みました。そこでその友人は即座に senza rigore[#「senza rigore」は斜体] と發音しました。するともう一度それを繰り返してくれと言ふので、今度はゆつくりと發音しますと、それをプルウストは、目をつぶりながら、聞いてゐたさうです。それから丁寧にお禮を云つて、忽ち消えるやうにその部屋を出て行つたさうです。――そのあとで、その友人は何んだか、その異樣な客が自分の部屋から、自分では氣づかないでゐた形や、色や、匂ひや、音などを持つて行つてしまつたやうな、妙な苛立たしさを感じずには居られなかつたと告白して居ります。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

「プルウストの聲は忘れられない。」と、彼の年少の友であつたコクトオが書いてゐます。「僕には彼の作品を聽かずに[#「聽かずに」に傍点]、彼の作品を讀むことは困難だ。スワンだとか、アルベルティヌだとか、シャルリュスだとか、ヴェルデュランだとかが喋舌るとき、僕は、プルウストが喋舌るときの、喋舌らうとして唸るときの、腹の底から笑ふやうな、不確かな、引き伸ばされた聲を聽くやうな氣がする。」――さう言はれると、プルウストのそんな聲を知らない我々にも、その聲のアクセントの描く曲線は朧げながら辿れるやうな氣もしますけれど、さて、その微妙なところになりますと、我々外國人の耳にはなかなか掴みにくいのであります。ことに飜譯などで讀む場合は、先程説明しましたやうな比喩の方はどうにか解るやうな氣もしますが、かういふ文章のリズムは全然解りつこないと斷言してもいいかと思ひます。
 私は冒頭に、どんな風にでも構はずに表現してしまふのが散文の本質だと述べ、只今は、さういふプルウストの文體の微妙な味にまでも迫らうとしました。しかし、さういふ文體の微妙な味といふものは、作家がどんなに無頓着に書かうと、おのづからそのうちに具はつてしまふものでありますので、一層それが微妙なものであることを御注意申し上げたいと思ひます。

 プルウストの文體は、注意深く見てみますと、以上のやうな微妙なものでありますが、その表面は、文法上の誤りなども大變多いさうで、いかに贔屓眼に見ても、甚だ不手際なものであります。それは先程も述べましたやうに、一瞬の感覺から、すぐその場で、何か永久性のある精神的なもの(これこそ本當の現實なのでありますが)を抽き出さうとする困難な仕事、その仕事に參加する夥しい數の記憶のこんがらかつた現はれでありますが、――もう一つ、その出發點となつてゐる、感覺そのものの豐富さに依ると言はなければなりません。
 コクトオの話によりますと、プルウストから受取つた手紙には、いつも「僕らがそんな事をしたとは
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