フローラとフォーナ
堀辰雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山査子《さんざし》
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(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
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プルウストは花を描くことが好きらしい。
彼の小説の中心地であるとさへ言はれてゐるコンブレエといふ田舍などは、まるで花で埋まつてゐるやうに描かれてゐる。山査子《さんざし》だとか、リラだとか、睡蓮だとか……
第二部の「花さける少女の影に」になると、その表題からして作者の花好きらしいことが偲ばれる。ことに子供の時分に、一晩中、ランプの下で、林檎の一枝を手にしてその白い花を飽かず見つめてゐるうちに、だんだん夜が明けてきてその光線の具合でその白い花が薔薇色を帶びてくるところを書いた一節などは、なかなか印象が深い。
「ソドムとゴモル」の中には、一少女がジェラニウムのやうに笑ふところが描かれてゐる。
この間、或る友人に送つて貰つたクルチウスの「プルウスト」を見てゐたら、こんなことが書いてあつた。「社會を描く作家を二種に分けてもいい。即ちそれを fauna として見て行かうとするものと flora として見て行かうとするものと。」――そしてクルチウスはプルウストを後者に入れて論じてゐる。
ずつと前に讀んだベケットの本にも同じやうなことが書いてあつたのを覺えてゐる。つまり、さう云ふ批評家によると、プルウストは人間を植物に同化させる。人間を植物《フローラ》として見る。決して動物《フォーナ》として見ない。(プルウストの小説には決して黒猫も、忠實な犬も出てこない。)花には意識的な意志なんと云ふものがない。そして羞恥がなくて、その生殖器を露出させてゐる。プルウストの小説中の人物も、丁度それと同じである。彼等には、盲目的な意志しかない。自意識なんて云ふものをてんで持ち合はしてゐない。人生に對してあくまで受身な態度をとつてゐる。だから道徳的價値なんか問題にならない。善惡の區別をつけようがない。プルウストはさう云ふものとして人間を見てゐる。同性愛も、彼にとつては、決して惡徳にはならない。かの「ソドムとゴモル」たちは Primula veris だとか Lythrum salicoria
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