h[#ここで横組み終わり]を書いた。生と死との神秘的な對立はいよいよ彼女にとつて大きな主題となつて來た。歐州大戰の起るや、彼女はユウゴオばりの幾多の詩によつて兵士たちを謳へた。次の詩集[#ここから横組み]“〔Les Forces E'ternelles〕”[#ここで横組み終わり](1921)はいまだ戰爭の思ひ出に活氣づけられてゐるが、彼女はやがて平生の主題に立ち返つて來てゐる。「わが心のうちに諍ひ合ふ二つのものあり、バッカスの巫女と尼と。」(〔Deux e^tres luttent dans mon coe&ur:〕 c'est la Bacchante avec la nonne.)一九二四年に第五詩集[#ここから横組み]“〔Poe`me de l'Amour〕”[#ここで横組み終わり]上梓。前の詩集とは見ちがへるほど簡潔な手法で、戀する女のなげかひを詠じた、連作風のものである。次の詩集、[#ここから横組み]“L'Honneur de Souffrir”[#ここで横組み終わり](1927)も、きはめて地味な、明晰な手法で、一友の死を契機として、死についての冥想を抒べたものである。「われはすでにあまりにも生の榮譽を歌ひぬ。」(〔J'ai trop chante' jadis l'honneur d'e^tre vivant.〕)最後の詩集は幼年時の詩を集めた[#ここから横組み]“〔Poe`me d'Enfance〕”[#ここで横組み終わり](1928)であつた。以上の七卷の詩集のほかに、隨筆集[#ここから横組み]“Les Innocentes ou la Sagesse de Femmes”[#ここで横組み終わり](1923)[#ここから横組み]“Exactitudes”[#ここで横組み終わり](19330)及び囘想記[#ここから横組み]“Le Livre de ma Vie”[#ここで横組み終わり](1932)がある。最後の著には、佛蘭西のもつとも洗煉された教養と東洋の遺傳との融合した家族のおもひで、ことにピアノの上手だつた美貌の母のことや、レマン湖の靜謐、コンスタンチノプルの華麗などが、魅力のある筆で敍せられてゐる。しかしその書を完成せずに、ノワイユ夫人は一九三三年四月三十日巴里に死んだ。



底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング