itto^〕”[#ここで横組み終わり]などの詩は赫灼たる古代を喚起せしめて見事である。第二詩集[#ここから横組み]“L'Ombre des Jours”[#ここで横組み終わり]は一九〇二年上梓。卷頭の[#ここから横組み]“Jeunesse”[#ここで横組み終わり]において、この若き浪漫主義者は自分から青春の失はれゆく日の胸ゑぐらるるがごとき思ひを歌つてゐる。又「わがもの書くは、われ亡きのち、いかばかり人生と幸福なる自然とをわが愛せしかを人びとに知らしめんがためなり」(〔J'e'cris pour que le jour ou` je ne serai plus〕 ……)といふ詩などもある。その後、しばらく詩作から離れて、三つの小説を續けて書いた。[#ここから横組み]“〔La Nouvelle Espe'rance〕”[#ここで横組み終わり](1903)[#ここから横組み]“〔Le Visage Emerveille'〕”[#ここで横組み終わり](1904)及び[#ここから横組み]“La Domination”[#ここで横組み終わり](1905)の三篇で、いづれも女の狂ほしい熱情を殘忍なまでに手きびしく描いたものである。そのうち、日に赫いた、花のにほひのする修道院のなかで、春の息吹きに苦しめられる一人の處女を描いた[#ここから横組み]“〔Le Visage Emerveille'〕”[#ここで横組み終わり]が佳作である。その後、再び詩に戻つて、[#ここから横組み]“Les Eblouissements”[#ここで横組み終わり](1907)を公にした。彼女の生への強烈な愛は、この詩集においてもつとも見事に、もつとも人間的に展開せられてゐる。彼女が太陽と光を歌つてこれほど壯烈だつたことはない。が、又、その生の歡喜をこれほど死の考へによつて暗くせられたこともない。「ああ、わが生を享けしは死のためにはあらざるぞ。」(〔He'las! Je n'e'tais pas faite pour e^tre morte.〕)この詩集を書いた後、詩神はひさしく沈默した。約六年間、彼女は羅馬やナポリや西班牙などを旅行したり、少女時代を過ごしたレマン湖畔のアンフィオンに歸つて籠居したりしてゐた。そして遂に一九一三年になつて第四詩集[#ここから横組み]“Les Vivants et les Morts
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