tによつて、それはもはや演者の内部にある感情ではなくして、演者が感情の内部に入つてしまつてゐるのである。……

 かくのごとく能の構成を説明してきたクロオデルは、今度は、その全體としての印象を與へようとする。それが夢に似てゐること、演者が一種の催眠術的状態の裡に動いてゐること、そして泣いたり殺したりするのには、唯、眠りに重たくなつた腕をもち上げさへすれはよいことなど。そして光つてゐる面の上を滑りながら足の指を上げたり下げたりなどしてゐる演者については、「その各※[#二の字点、1−2−22]の動作は、大きな衣裳の重みと襞と共に、死に、打ち克たんがためのものであり、又その動作の一々は、失へる熱情の、永遠の中における緩やかなる模寫であると言へよう。」――「影の國から連れ出されて、それが我々の冥想的な眼差しの裡に、自ら描くところの生なのである。」――「我々は我々のいかなる行爲をも、不動の状態において見るのである。動きにはもはや意味しか殘つてゐないのである。」――「我々の目の前に一瞬間形づくられる彫像のごとくに、夫が、その妻を見つめようともしないでその前を通り過ぎようとする刹那、その愛する者の肩の上に置いた手のなかの何といふ優美さ! そして繪入新聞の中に見かけらるるごときかかる悲哀の俗な動作も、それが緩やかに、注意ぶかく、演ぜられるとき、何んとそれは深い意味をもつことだらう!」

 クロオデルはかくのごとく能の美しさを説きすすみながら、更らにかかる能の歴史、謠曲の文學的性質、さては能の衣裳、面、扇などにまで獨自の見解を加へてゐる。例へば、扇についてはかう書いてゐる。
「この彫像の上で、それは顫へてゐる唯一つのものである。それはその彫像の腕の先にただ一つきりある人間的な葉むれである。そしていましがた私が言つたやうに、それは翅のやうに、思考のあらゆる態を眞似る。それは色彩組織を變へ、心臟の上でゆるやかに打ち、又、不動の顏の代りに震へる、金と光との點である。それは手のなかに咲いてゐる花であり、炎であり、鋭い矢であり、思考の地平線であり、魂の顫動である。「蘆刈」の中で、長い別離のあとで、夫と妻とが再會するとき、二人の感動は、二人の息づかひを一瞬間ごつちやにしてしまふ、二箇の扇の顫動によつてのみ表現されるのである。」



底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57
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