ヘ決して面をかぶらない。彼は普通の人間なのである。
舞臺はワキの出によつて、靜かに始まる。正面までしづしづと出てきたワキは、我々に向つて、名乘りを上げる。例へば、諸國行脚の僧などである。それから彼はワキ座につく。そして橋がかりの方へ目を据ゑて、彼は待つてゐる。
彼が待つてゐる、と何びとかが現はれてくるのである。
神、英雄、仙人、亡靈、鬼など――シテはいつも見知らぬものの使者である。そしてそれに準じて彼は面をつけるのである。それはワキに自分を發《あば》いて呉れるやうにと歎願する、覆ひ隱れた、祕密な何物かである。その歩き方と所作は、それを引きつけそれを彼の想像地帶に囚へたままにしてをるところの、ワキの眼差しの函數《フォンクシオン》である。例へばそれは、その亡靈がその殺害者に一歩々々近づかうとする、殺された女などである。――ワキは、長い間、彼女の上に目を据ゑてゐる、看客は彼を見守つてゐる、彼は目ばたきさへしてはならない。……ワキは尋ねる、シテは答へる、地謠が註釋する。そしてこの面をかぶつた、悲愴なる來者は彼をそんな風に來らしめた者に、涅槃をもたらす。そして彼(シテ)は音樂でもつて、像《イマアジュ》と言葉との圍ひを組み立てる。
それから間[#「間」に傍点]になる。通行人がやつて來て、ワキに、對話の調子で低聲に問うたり、又説明したりする。
さて、後[#「後」に傍点]の場になる。ワキはその役目を了へる。そしてもう傍觀者に過ぎなくなる。一瞬間引つ込んでゐたシテが再び現はれる。彼は死から、粗描から、忘却から出てくるのである。彼は着附を換へ、ときには變形する。いまや全場面は彼のものである。彼はその魔法の扇でもつて、現在を蒸氣のやうに追ひ拂ひ、そしてその不思議な衣のゆるやかな風でもつて、もはや存在して居らぬものに、彼のまはりに浮び上がるやうに命令する。他の者らがそれに續けるに從つて消え去つてゆく彼の詞《ことば》の魔術によつて、地下の光景が漸く灰の中からはつきりと浮んでくる。シテはもはや物語らぬ。彼は僅かの言葉、僅かの抑揚にみづからを制限する。そして地謠が一種の非人格的な歌唱で、シテの代りに、肉體的及び精神的風景を展開させる役目をする。シテは左右に走り、確かめ、證明し、展開させ、又所作をする。そして姿勢と方向との變化によつて、夢幻劇のすべての推移を示す。驚くべき逆説《パラドクス
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