うに、その女をそんな行爲にまで驅りやつた漠然とした動機は、我々にはその女自身によりもいくらかはつきりと感ぜられる位のものだ。ただ、その小説の結末になつて、夫が遽にテレェズを許して、巴里に連れてゆき、其處に彼女を一人だけ殘して再び田舍へ歸つて行かうとする際、夫ははじめて優しく妻に「どうしてあんなことをしたのだ?」と問ひかけると、テレェズは「いましがたそれがやつと分りました。それは貴方のうちに不安を見出したかつたからかも知れません」と答へてゐるのだ。それからまた彼女に「私は私の手がためらふときしか自分を殘忍な女だとは思ひませんでした。……私は恐ろしい義務に負けたのです。さうです、それはまるで義務のやうでした」とも云はせてゐる。これらのテレェズの言葉が、見方によつては、小説全體の上に強い光を投げつけ、彼女のそれまでの憑かれたやうな行爲の一つひとつを異様に照らし出すやうに思へないことはない。さうしてテレェズの夫のやうな、自分に滿足し切つて、いくぢのない平和を貪つてゐる人間の裡に、はげしい不安を呼び醒まさずにはおかないやうな恐ろしい義務、テレェズをしてあんな慘めな行爲に驅りやつたもの、――さうい
前へ 次へ
全15ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング