ポオにしろ、又、コクトオのやうなものまでが、最後にはカトリックになるね。あの氣持だな、あれがちよつと解るやうな解らないやうな氣がするのだ。恐らく誰に訊いてもはつきりとは答へられまい。ちやうど東洋の詩人が最後にはすべて虚無のやうなものに還つてゆく、ああいつた氣持にそれが何處か似てゐるやうでゐて、まるで正反對なのではないかと思ふ。たとへば、モオリアックだな、その「テレェズ・デケルウ」と云ふのは、夫を毒殺しようとして未遂に終る女のことを書いてゐるのだ。さういふ恐ろしい女主人公を、モオリアックは少しも憎まうとしてゐない。それどころか非常に優しい愛情でもつて包んでやつてゐる、自分の慘めなことを知つてゐるこの女が好きで好きでたまらないやうなところが僕等にも感ぜられる、そしてさういつたものがこの小説の調子をリリカルなものにさへしてゐる位だ。が、それに引きかへ、彼女の周圍の者は、ことにその俗人ではあるが善良な夫などは徹底的に冷酷に取り扱はれてゐる。むしろ戲畫化さへされてゐる。――恐らくモオリアックの愛してゐるのは、テレェズの痛々しいまでな不安なのであらうし、はげしく憎んでゐるのは、夫やその他の人々の世俗的な自己滿足なのであらうと思はれる。――そしてそれだけが僅かにカトリック的だと云へば云へないこともないだらう。
A それがどうしてカトリック的だと云ふのだい?
B 僕に相變らず解つたやうな解らないやうな始末なのだが、まあ、さういつたものがカトリック的なのだとして置いて貰はうぢやないか。この問題は、もうすこしお預けだ。そのうちだんだん解るかも知れん。――ともかくも、さういふ問題は拔きにしても、この小説は素晴らしいものだ。この可哀さうな毒殺女の氣持のよく描けてゐることと云つたら! 恐らく讀者には、テレェズ自身よりも、彼女の夫を毒殺するに至るまでの心理が、はつきりと辿れるのだ。何故ならテレェズには、彼女自身のしてゐることを殆ど意識してゐないやうな瞬間があるのだが、さういふ瞬間でさへ、讀者は、彼女がうつろな氣持で見つつある風景や、彼女の無意識的な動作などによつて、彼女がその心の闇のなかでどんなことを考へ、感じてゐるかを知り、感ずることが出來るのだ。――こんな工合に讀者を作中人物の氣持のなかへ完全に立ち入らせてしまふなんて云ふのは、君、大した腕だよ。それがこれほどまでに成功してゐる例は滅多にあ
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