るものぢやない。
A ラジィゲの「舞踏會」はさう云つたところがあるんぢやない? 僕などはあの女主人公の心理にぐんぐん引つぱられて行つたものだがなあ。
B さうだ、あれも大したものだつた。誰かが云つてゐたが、「この女は自分ではかうなのだと信じてゐる……が、實際はかうなんだ……」なんて云つた調子で、知らず識らずに自分の感情を間違へてしまつてゐる、それほど豐富で複雜な感情をもつた人々が實に微妙に描き分けられてゐたが、いま考へると、あの小説の唯一の缺點は、あまりにラジィゲが自分の作中人物を支配しすぎてゐたことだ。モオリアックを讀んだあとなどではそれが特に目立つ。モオリアックはむしろ反對に自分がその作中人物に支配されることを好む。いつのまにか作中人物が彼等の裡にある運命曲線を一人でずんずん辿り出す。作家はただそれについて行くだけになる。作中人物が生々としてくればくるほど、ますます彼等は作家の云ふことをきかなくなるものだ。しまひには作家をまるで思ひがけないやうなところまで引つぱつて行つてしまふ。それは作家にとつては大成功だ。――だが、モオリアックなどには、カトリックとしての立場から、それがまた隨分苦しい爭鬪になつてくるのだらうね。
A ぢや、さつき君の非難してゐた「フロオランス」などはどうなのだい?
B さう、あれはまるでぢつとしてゐる肖像畫みたいなのだよ。――才能の相違かな、作家としてのね。それが一番大きな問題だらう。――だが、それからもつと具體的な相違を抽き出して考へて見ると、例へばそれは兩者のモデルの扱ひ方にあるのだと思ふ。先づ、リヴィエェルの「フロオランス」だが、これには實在のモデルがあるのださうだ。一つにはそのモデルへの顧慮からも、發表をひかへてゐたのだが、そのモデルになつた女性が亡くなつたので、漸くこの遺稿が上梓されるやうになつたといふ話も聞いてゐる。それほど、リヴィエェルは、そのモデルを出來るだけそつくりそのまま生かさうとしたらしいのだね。生れつきさういふ性分であるらしい。批評の場合は、その對象に何處までも忠實について行かうとする、さういふ誠實さが誰にもましてリヴィエェルの批評の強味であり、屡※[#二の字点、1−2−22]それが見事な成功を收めてゐるが、小説の方はなかなかさうは行かないのだ。小説にあつては、リヴィエェルに最も缺けてゐるもの――想像といふものが大きな
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