か小説の上で行きづまりかけてゐてひどく心細かつたが、モオリアックを知つてからといふもの、急に行手が明るくなつたやうな氣がしてゐるのだ。――が、かういつたモオリアックのやうな行き方は、仕事としては一番難かしさうだが……
A 一體どんな行き方をしてゐるのだい?
B どんな行き方つて、さう、ごく大ざつぱに云ふと、ドストエフスキイやプルウストみたいな掘り下げ方をしてゐる。恐らく彼等から隨分影響を受けてもゐるのだらう。そしてかなり深くまで行つてゐる。が、ああいふ厖大なものぢやない。みんな二三百頁位の作品で、ごく澁い、クラシカルな額縁の中にちやんと嵌つてゐる。そんなところは、その古典的な形式を僕の愛してやまないジィドの「窄き門」を思ひ出させる。そんな一方では、モオリアックは口を極めてラジィゲの「舞踏會」を賞めてゐるし、コクトオの小説も愛してゐるらしい。コクトオの小説の中にある「夢のやうなものと悲痛なものとの混合」は珍重すべきだなどと云つてゐる。……ともかくも、今名前を擧げたやうな作家たちをまるで打つて一丸としたやうな作家なのだ。以上の作家たちは、いづれも僕のこれまで特に勉強してきた作家たちだ。――さういつた要素が何もかあるやうなこのモオリアックを、僕が好きにならざるを得ないぢやないか。ただ、すこし困ることがあるんだ。それはモオリアックがカトリック作家であることだ。それのために僕はいままでつい彼を敬遠してゐたのだが、それがまたいつか僕を彼から引き離すやうなことになるかも知れんね。どうも僕は一生カトリックにだけはなれさうもないからなあ。だが、僕のこれまで讀んだ彼の作品――ことに「テレェズ・デケルウ」なんかぢや、そんな宗教臭いところは何處にもないね。モオリアックがカトリックであることを知らなかつたら、全然そんな要素には氣がつかずにしまふのぢやないか知らん?
A でも、作家がカトリックである以上は、全然そんな要素のないわけではあるまい。
B うん、それが一番モオリアックを苦しめてゐる問題でもあるのだらうね。こんなことを云つてゐる、「私は作家だ、私はカトリックだ、そこに爭鬪があるのだ。」「カトリックであることは作家にとつては幸福だが、作家であることはカトリックにとつては甚だ危險なことだ」と。――ところで、そのカトリシズムなるものが、僕等にはなかなか解らないのだよ。ボオドレエルにしろ、ラン
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