んぞでも、作者は本の中にちやんとした主題を置いてゐるね。眞劍になつて何か云ひたがつてゐることのあるのが、讀者にも知らず識らず通じてくるのだ。だから、それをすつかり聞いてしまはないうちは、やつぱり中途で止められないのだね。
A 西洋の作家はそこが日本の作家と違ふな。僕などはあまり讀まないが、ときどき日本の小説を讀む度毎に考へさせられるんだが、一體何か云ひたいものを持つてゐてそれで書いてゐる作家が幾人ゐるのだい?
B …………
A で、その「フロオランス」といふのは、何を書かうとしてゐるの?
B 〔Le vent se le`ve, il faut tenter de vivre.〕(風が立つた、生きんと試みなければならぬ。)――ヴァレリイの詩句だが、これがこの小説の題辭《エピグラフ》になつてゐる。一番簡單に云ふと、さういふ生きんとする試み――その苦しい試みをピエェルがいかに超えていつたかが、その主題だ。もうすこし精しく云ふと、ピエェルとフロオランスとの出會、彼等の戀愛、昔の戀人に奪囘されるフロオランス、彼の嫉妬、――さういつた人生との痛ましい苦鬪ののち、遂にピエェルは自己の快樂を犧牲にして再び元の自己へ、神の許へ歸つてゆく。(その結末のあたりは未完に終てゐるが、序文でリヴィエェルの細君がさう解説してゐるのだ。)――まあ、さういつたやうな境遇の心理的研究のやうなものになつてしまつてゐる。リヴィエェルのねらつてゐたやうな小説的興味などはちつとも起らない。フロオランスといふ女だつて、ちつとも描けちやゐない。……この間讀んだモオリアックの「テレェズ・デケルウ」なんぞに比べたら、まるでなつちやゐないのだ。……ただ、あの生眞面目で、氣どりやのリヴィエェルが人生に對して持つてゐた愛、生の悦びを味へるものなら何でもかんで手に入れようとしてゐた意慾、さういつたものだけが悲しいまでに僕を打つてくるのだ。さうしてそれだけだ。が、本當にそれは悲しいまでになのだ。……
A そのモオリアックの小説つて、どんなの? その何とかいふ……
B 「テレェズ・デケルウ」か。これはもう素晴らしい小説だ。數年前、僕がはじめて小説を書き出さうとしてゐた頃にコクトオやラジィゲの小説を讀んで非常に刺戟されたものだつたが、まるであの時分みたいに僕はこの小説を讀んで昂奮してゐる位なのだよ。この一二年といふもの、僕もなん
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