ないのと彼女に応《こた》えた。それを聞くと彼は無造作に屋根の上に出て行った。彼女も笑いながら彼について来た。そして二人が屋根の端まで歩いて行った時、彼はすこし不安になりだした。それは屋根のわずかな傾斜から身体の不安定が微妙に感じられるせいばかりではなかった。
 その屋根の端で彼はふと彼女の手とその指環《ゆびわ》を見たのである。そして彼女が何でもなかったのに滑りそうな真似《まね》をして指環が彼の指を痛くするほど、彼の手を強く掴《つか》むかも知れないと空想した。すると彼はへんに不安になった。そして急に彼は屋根のわずかな傾斜を鋭く感じだした。
「もう行きましょう」そう彼女が言った時、彼は思わずほっとした。彼女は先に一人でバルコニイに上ってしまった。彼もそのあとから上ろうとして、バルコニイで夫人と彼女の話しあっているのを聞いた。
「何か見えて?」
「ええ、私達の運転手が、下でブランコに乗ってるのを見ちゃったのよ」
「それだけだったの?」
 皿とスプウンの音が聞えてきた。彼はひとりで顔を赧くしながら、バルコニイへ上って行った。

 夫人の「それだけだったの?」を彼はお茶をのんでいる間や、帰途の自
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