を見のがさなかった。
「お病気はもういいの?」
「ええ、すっかりいいんです」
彼はそう答えながら彼女の顔をまぶしそうに見つめた。
彼女の顔はクラシックの美しさを持っていた。その薔薇の皮膚はすこし重たそうであった。そうして笑う時はそこにただ笑いが漂うようであった。彼はいつもこっそりと彼女を「ルウベンスの偽画」と呼んでいた。
まぶしそうに彼女を見つめた時、彼はそれをじつに新鮮に感じた。いままでに感じたことのないものが感じられて来るように思った。そうして彼は彼女の歯ばかりを見た。腰ばかりを見た。その間に、彼は病気のことは少しも話そうとはしなかった。そういう現実の煩《うる》さかったことを思い出すことは何の価値もないように彼は思っていた。そのかわりに彼は、真白なクッションのある黒い自動車の中に黄いろい帽子をかぶった娘の乗っていたのが、西洋の小説のように美しかったことなどを好んで話すのだった。そしてその娘の香《にお》いがまだ残っていた美しい自動車に乗ってきたのだと愉快そうに言った。
しかし彼はその自動車の中に残っていた唾のことは言わないでしまった。そうした方がいいと思ったのだった。が、そ
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