上にしちらされた新鮮な唾《つば》のあとを見つけたのである。ふとしたものであるが、妙に荒あらしい快さが彼をこすった。目をつぶった彼には、それが※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りちらされた花弁のように見えた。
しばらくしてまた彼は目をひらいた。運転手の脊《せ》なかが見えた。それから彼は透明な窓硝子《まどガラス》に顔を持って行った。窓の外はもうすっかり穂を出している芒原《すすきはら》だった。ちょうど一台の自動車がすれちがって行った。それはもうこの高原を立ち去ってゆく人人らしかった。
町へはいろうとするところに、一本の大きい栗《くり》の木があった。
彼はそこまで来ると自動車を停めさせた。
※[#アステリズム、1−12−94]
自動車は町からすこし離れたホテルの方へ彼のトランクだけを乗せて走って行った。
それのあげた埃《ほこり》が少しずつ消えて行くのを見ると、彼はゆっくり歩きながら本町通りへはいって行った。
本町通りは彼が思ったよりもひっそりしていた。彼はすっかりそれを見違えてしまうくらいだった。彼は毎年この避暑地の盛り時にばかり来ていたから
前へ
次へ
全25ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング