ころだった。彼を見ると夫人は急に思い出したように彼女に言った。
「あの乳母車《うばぐるま》にのっている写真をお見せしないこと?」
 彼女は笑いながらその写真を取りに次の部屋にはいっていった。その間、彼の眼のうちらには、彼女の幼時の写真の古い茸《きのこ》のような色がひとりでに溜《たま》ってくるようだった。次の部屋から再び帰ってきた彼女は彼に二枚の写真を渡した。が、それは二枚とも彼の眼をまごつかせたくらいに撮影したばかりの新鮮な写真だった。それはこの夏この別荘の庭で、彼女が籐椅子《とういす》に腰かけているところを撮《と》らせたものらしかった。
「どっちがよく撮れて?」彼女が訊《き》いた。
 彼は少しどきまぎしながら、近視のように眼を細くしてその二つの写真を見較《みくら》べた。彼は何とはなしにその一つの方を指《さ》してしまった。そのとき彼の指の先がそっとその写真の頬《ほお》に触れた。彼は薔薇《ばら》の花弁に触れたように思った。
 すると夫人はもう一つの方の写真を取りあげながら言った。
「でも、この方がこの人には似ていなくて?」
 そう言われてみると、彼にもその方が現実の彼女によりよく似ているように思われた。そしてもう一つの方は彼の空想の中の彼女に、――「ルウベンスの偽画」にそっくりなのだと思った。
 しばらくしてから、彼は実物を見ないうちに消えてしまったさっきの古い茸のような色をしたヴィジョンを思い出した。
「乳母車というのはどれですか?」
「乳母車?」
 夫人はちょっと分らないような表情をした。が、すぐその表情は消えた。そしてそれはいつもの、やさしいような皮肉なような独特の微笑に変っていった。
「その籐椅子のことなのよ」
 そしてそのように和《なご》やかな空気が、相変らず、その午後のすべての時間の上にあった。

 これがあれほど彼の待ちきれずに待っていたところの幸福な時間であろうか?
 彼女たちから離れている間中、彼は彼女たちにたまらなく会いたがっていた。そのあまりに、彼は彼の「ルウベンスの偽画」を自分勝手につくり上げてしまうのだ。すると今度はその心像《イマアジュ》が本当の彼女によく似ているかどうかを知りたがりだす。そしてそれがますます彼を彼女たちに会いたがらせるのであった。
 ところが現在のように、自分が彼女たちの前にいる瞬間は、彼はただそのことだけですっかり満足して
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