て行った。
[#ここから3字下げ]
ホテルは鸚鵡《おうむ》
鸚鵡の耳からジュリエットが顔を出す
しかしロミオは居りません
ロミオはテニスをしているのでしょう
鸚鵡が口をあけたら
黒ん坊がまる見えになった
[#ここで字下げ終わり]

 彼はもう一度それを読み返そうとしたが、すっかりインクがにじんでしまっていて何を書いたのか少しも分らなくなってしまっていた。
 それでもやはり彼は、約束の時間よりもすこし遅れてやってきた友人がひょいとそれを覗《のぞ》き込んだ時には、それを裏返えしにした。
「隠さなくてもいいじゃないか?」
「これは何でもないんだ」
「ちゃんと知ってるよ」
「何をさ」
「一昨日、いいところを見ちゃったから」
「一昨日だって? なんだ、あれか」
「だから今日は君が奢《おご》るんだよ」
「あれは、君、そんなもんじゃないよ」
 あれはただ浅間山の麓《ふもと》まで自動車で彼女たちのお供をしただけだ。「たったそれだけ」だったのだ。――彼は再びその時の夫人の言葉を思い出した。そしてひとりで顔を赧《あか》くした。
 それから彼等は食堂へはいって行った。それを機会に彼は話題を換えようとした。
「ときに君の絵はどうしたい?」
「僕の絵? あれはあのままだ」
「惜しいじゃないか?」
「どうも仕方がないんだ。ここは風景は上等だが、描きにくくて困るね。去年も僕は描きに来たんだが駄目さ。空気があんまり良すぎるんだね。どんなに遠くの木の葉でも、一枚一枚はっきり見えてしまうんだ。それでどうにもならなくなるんだよ」
「ふん、そんなものかね……」
 彼はスウプを匙《さじ》ですくいながら、思わずその手を休めて、自分自身のことを考えた。ことによると、自分と彼女との関係がちっとも思うように進行しないのは、ひとつはここの空気があんまり良すぎて、どんなに小さな心理までも互にはっきり見えてしまうからかも知れない。彼はそれを信じようとさえした。
 そして彼は考えた。描きかけの風景画をたずさえてこれから東京へ帰ろうとしているこの友人と同様に、自分もまた数日したら、それも恐らく描きかけのままになるであろう自分の「ルウベンスの偽画」をたずさえて再びここを立ち去るより他《ほか》はないであろうか?

 午後になって、その友人を町はずれまで見送ってから、彼はひとりで彼女の家を訪れた。
 丁度ふたりでお茶を飲んでいると
前へ 次へ
全13ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング