入らっしゃれませんか?」と半ば常談のように言い足した。
「それではあんまり苦しゅうございましょう」頭《かん》の君《きみ》は、そういう最後の言葉をもほんの常談として受け取るだけの余裕もないほど、悄《しょ》げ返《かえ》って、そのままずうっと縁の方まですさって往かれた。さっきの橘《たちばな》の花の匂はそちらから頭の君が簾《みす》の近くまで持ち込んで来たのにちがいなかった。
私はふと、その一瞬前の何んとも云えず好かった花の匂を記憶の中から再びうっとりと蘇《よみがえ》らせていた。それがそのまま暫く私を沈黙させていた。
頭の君はそういう私をすっかりもう自分の事を取り合おうとはしないのだと御とりになって、「何だかすっかり御気色をお悪くさせてしまいまして。もう何も仰《おっし》ゃって下さらなければ、私は帰った方がよろしいのでしょう。――」
そう言って、頭の君は、さも私を怨《うら》むように爪《つま》はじきなどなさりながら、なおしばらく無言で控えて入らしったが、頭の君がそうお思いになって居られるならそれでもいい、と私が更らに物を言わずにいたものだから、とうとう立ち上って帰って往かれるらしかった。
丁
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