残すような事もあまりあるまいと思われたが、只、こうしていろいろな夢をいだいて私のところにやって来たでもあろう撫子がまあどんなに胸の潰《つぶ》れるような思いをする事だろうと、その事のみが気づかわれるのだった。
 もう梅雨《つゆ》ちかいそんな或日、突然殿があの祭の日からはじめてお見えになられた。私が空《うつ》けたような顔ばかりして、いつまでも物を言わずにいると、「どうして何も言わないのだ」と、殿は私の機嫌をとるように言い出された。「何も言うことがございませんので――」と私が思わず生返事をすると、殿は急にこらえ兼ねられたようにお声を荒らげて、「どうしてお前は、来てくれない、憎い、悔やしいと、おれを打つなり抓《つね》るなりしないのだ」などとお言い続けになった。私はしばらく打ち伏したまま無言で聞いていたが、稍《やや》たってから、やっと顔をもたげ、「わたくしの方で実は申し上げたかった事を、そのように何もかも御自分で仰《おっし》ゃられてしまいましたので、もう私の申し上げたい事はなくなりました」と言いながら、私はいつか自分がいかにも気味よげにほほ笑《え》みだしているのを感じていた。
 その日はそうやっ
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