「夜更けて、いま頃になると、いつも余所《よそ》ではそんな事をなさるのでしょうけれど――」と言い足した。
 そういう冷めたい、それなりに何処となく熱の籠《こも》ったような私の言葉が、思わず頭の君を、もう手をかけそうにしていた簾から飛びすさらせた。「そんな御あしらいしかなされまいとは夢にも思いませんでした。」頭の君は其処に再び顔を伏せながら、「暫くなりと簾のなかへ入れていただけたら、只もうそれだけでよろしゅうございましたのに。若しこんな事で御|気色《けしき》を悪くせられたようでしたら、重々お詫《わ》びいたしますから――」と詫びられていた。
 私はそういう頭の君に更に圧《お》しかぶせるように「いくら私が年をとっていて、私の事を何んともお思いなさらずとも、簾の中へ御はいりなさろうというのは、まあ何んという事です。その位の事が御わかりにならないあなた様でもありますまいに――」と言い続けていたが、そのままその場に居すくまれたようにして入らっしゃる頭の君を見ると、さすがに少しお気の毒になってきて、それから急に語気を落すようにしながら、「昼間、内裏《うち》などに入らっしゃるようなお積りで、此処にだって入らっしゃれませんか?」と半ば常談のように言い足した。
「それではあんまり苦しゅうございましょう」頭《かん》の君《きみ》は、そういう最後の言葉をもほんの常談として受け取るだけの余裕もないほど、悄《しょ》げ返《かえ》って、そのままずうっと縁の方まですさって往かれた。さっきの橘《たちばな》の花の匂はそちらから頭の君が簾《みす》の近くまで持ち込んで来たのにちがいなかった。
 私はふと、その一瞬前の何んとも云えず好かった花の匂を記憶の中から再びうっとりと蘇《よみがえ》らせていた。それがそのまま暫く私を沈黙させていた。
 頭の君はそういう私をすっかりもう自分の事を取り合おうとはしないのだと御とりになって、「何だかすっかり御気色をお悪くさせてしまいまして。もう何も仰《おっし》ゃって下さらなければ、私は帰った方がよろしいのでしょう。――」
 そう言って、頭の君は、さも私を怨《うら》むように爪《つま》はじきなどなさりながら、なおしばらく無言で控えて入らしったが、頭の君がそうお思いになって居られるならそれでもいい、と私が更らに物を言わずにいたものだから、とうとう立ち上って帰って往かれるらしかった。
 丁
前へ 次へ
全33ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング