の近くの灯をそむけて、薄暗いなかにひとりそのままじっと目をつむっていた。そして私はその目のうちらに、自分自身のこうしている姿を、ついいましがた頭の君に偸見《ぬすみみ》せられていたでもあろうような影として、何んと云うこともなく蘇《よみがえ》らせていた。それは半ば老いて醜く、半ばまだ何処やらに若いときの美しさを残していた。そうしているうちに、私がだんだん何とも云えず不安な、悔やしいような心もちに駈りやられていったのは、そういう自分の影がいつまでも自分の裡《うち》に消えずにいるためばかりではなかった。それはさっきあんなに狼狽《ろうばい》を見せて頭の君をたしなめたときの、自分自身を裏切った、自分の嗄《しゃが》れた声がまだそこいらにそのままそっくりと漂っているような感じのし出して来たためだった。
私はそういう一見何んでもないように見える事のために、思いがけないほど自分の心が揺らぎ出しているのを、しょうことなく揺らぐがままにさせていた。……
その三
頭《かん》の君《きみ》はそんな事があってからも、私がそれをそれほど苦にしていようとは夢にもお知りなさらない風に、相変らず、何かと道綱のところに来られては、撫子の事で同じようなことのみ道綱を仲にして私に言ってお寄こしになっていた。
私も、さりげない風をして、「姫はまだ小さいから――」と同じような返事ばかり繰り返させていた。それに丁度道綱がこんどの賀茂祭の御祓《おはらい》には使者に立つ事になっていたので、何かとその支度をしてやらなければならないので、私はそれをいい事にその方にばかり心を向け出していた。自然、撫子の事やなんぞで何んのかのと私をお苦しめになられる、頭の君の上からは心をそらせがちだった。――頭の君も頭の君で、毎日のように、役所の往き帰りに道綱のところに立ち寄られては、何かと先輩らしく世話を焼きながら、御自身は御祓の果てる日を空しく待たれているらしかった。
ところが或日、道綱は、往来で犬の死骸を見かけたと言って出先きから戻って来た。そうやって、その身の穢《けが》れた上は、御祓の使者は辞さなければならなかった。一方、道綱がそうして忌《いみ》にこもり出すと、頭の君はこんどは又役所の用事にかこつけては、前よりも一層繁々とお立ち寄りになり、いつまでも上がり込まれて、あれから頭の君がいくら入らしってもお会いしない事にして
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