は分かって来たのだった。しかし御自分ではそれには一向お気づきなされようともせずに入らっしゃるらしかった。
 それから漸《や》っとあの方は御自分にお立ち返りになられたかと思うと、何だってそんな事をなすったのかはよくお分かりにならぬながら、急にいままでの何もかもをほんの一時の御戯れだったとでも云うようになさろうとして、私にいつものような御常談なんぞを言われ出した。私も私で、あの方がかりそめにも私のためにお苦しめられになったなんぞと云う事をあの方にはお分かりにならせぬのが、せめてもの私の思いやりででもあると云ったように、さも何事もなかったようにしていた。しかしあの方はまだ何かがお気になると見え、御常談もいつもほど思うようには仰ゃれずにいらしった。
 それからその夜は、あの方は私といつになくお心をこめてお語らいになられ出した。私はといえば、そんな事ももう別に嬉しいとは思わずに、只、何もかもすっかりあの方のなさるがままになっていた。そうしてあくる朝になって、やっと平生のいかにも颯爽《さっそう》としたお姿に立ち返えられながら、お帰りになって往かれようとなすっているあの方の後ろ姿を、突然、胸のしめつ
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