度がすっかり出来てしまってからも、いつまでもじっと身じろぎもせずにいた。
 あの方の入らしったのは申《さる》の刻頃だったのに、もう火ともし頃になってしまっていた。しかしまだ私がなかなか動きそうにもなかったので「よしよし、おれは先へ往くぞ。あとは、大夫、お前に任せる」と道綱にお言いになって、ずんずん先に出て往かれた。道綱は「早くなさいませ」と私の手をとって、いまにも泣きそうにしていた。こうなってはもうどうにもしようがない、みすみす山を出て行かなければならない私は、自分なんだか他人なんだか分らないようなほどになっていた。……

 大門を出ると、あの方も同じ車に乗って来られ、道すがら、いろいろ人を笑わせるような事ばかり仰ゃっていた。けれども、私は物も言う気にはなれなかった。一しょに乗っていた道綱だけ、ときどき笑を噛み殺しながら、それに内気そうにお答えしていた。
 はるばると乗って、やっと家に着いたのは、もう亥《い》の刻にもなっていた。

 京では、昼のうちから私の帰る由を言い置かれてあったと見え、人々は塵掃《ちりはら》いなどもし、遣戸《やりど》などもすっかり明け放してあった。私は渋々と車から
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