。そうして「殿も只今御退出になりました」などと語るのを聞いて、いくら夜が更けていたって昔ながらのお心さえおありだったならばこんな事はなさるまいに、と私は胸が潰《つぶ》れるような思いがした。それから、また、以前のように、音沙汰がなくなってしまっていた。
やっと十二月になって、七日頃にあの方がちょいとお見えになった、何だかもう顔を見られるのも不快なので、几帳をよせて、その陰に引きこもっていると、お出《いで》になったばかりなのに、「日が暮れたな。どれ、これから参内せねば――」と仰ゃってお帰りになられたぎり、音信《おとずれ》もなくて、十七八日になった。
その日の昼頃から、雨がそんなに強く降ると云うほどではなしに、ただ何となく降りつづいていた。こんな日なんかには若《も》しやと云うほどの気にさえなれず、私はしょうことなしに昔の事などを思い出しながら、昔の自分が心待ちにしていたすべての事と今の自分とは何と云うひどい相違だろう、あの頃はこんな雨風にだって御いといなさらぬものをと自分は信じていたのに、なんぞと考え続けていた。しかしいま、こうやってしみじみと思い返して見ると、その頃だって自分はちっと
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