いがけないような事になるかも知れないのにと、またしても例の物思いをし出そうとしている自分に気がつくと、私はもうそんな自分をば勝手に一人で苦しませるために、さっきの呉竹がますます傾き出しているのをも、わざとそのままにさせて置いた。
この頃あの方はずっと近江とか云う女のもとへお通い詰めだと云う事をお聞きしていた。
そんな或日の事、あの方から珍らしく御消息があって「私の心の怠りでもあるが、いま忙しい事も忙しいのだ。夜分でもと思うけれど構わないか。何だかお前が怖いような気もするが――」などと書いておよこしになった。私は「只今気分が好くありませんので何も申し上げられません」と素っ気ない返事をやったが、そのすぐ跡からそんな返事をやった事でもって自分から絶え入るような思いをしていると、その夜、あの方はいかにも平気そうな御様子をなすってお見えになった。ほんとうに悔やしいと思って口も利かずにいると、あの方は悪びれもせずに常談ばかりお言いになっていらしった。それが私にはとても辛くて辛くて、とうとうこの日頃ずっと我慢しつづけていた事をお訴えし出していると、そのうちにあの方は何とも御返事をなさらなくなってしまった。そうしていつの間にかもう寐入《ねい》ってしまわれたようだったので、私は急に気抜けがしてそのまま黙っていると、その時ふいとあの方は薄目をお開けになって、そう云う私に「どうしたのだ。もう寐てしまったのか」と意地悪そうにお笑いかけなすった。けれども、私はもう石のように押し黙ったぎり、そのまま夜を明かしてしまったので、翌朝あの方は物もお言いにならずにお帰りになられた。
それから二三日するかしないうちに、あの方は何事もなかったかのように、例の縫物などを持って来させて、「これを仕立ててくれ」などと言っておよこしになった。が、私はそれには手もつけずに、そっくりそのままそれを返えしてやった。
三月も末近くなってから、父が京に上って来られたので、私はあんまりこうして暮してばかり居ても息苦しくって溜《たま》らなかったし、それに忌《いみ》も違《たが》えがてら、しばらく父の所へ往くことにした。そちらで、この間から思い立っていた長精進もはじめようかと思い、いろいろその支度をし出しているところへ、あの方から御文があった。相変らず「勘当は未だなのか。もう許してくれるなら、暮方にでも往きたいがどうだ」などとある。私がそのまま返事を出さずにいると、人々がそれではあんまりだと言ってうるさいので、「二た月もお見えにならなかったのに、不思議な御文ですこと」とだけ返事を書いてやった。少しでも早く静かに落着きたいと思うので、急いで父の家へ引き移って往った。月のない空に、夜まで一そう更けまさって見えた。いつものように私の胸の中は沸きたぎるようだったけれど、父の家は手狭でもあったし、生憎《あいにく》人もごたごたしていたので、息もろくにつけずに、胸に手を置いたような、重くろしい気もちでその夜は明かした。
思ったとおり、あの方からはそれっきり何の音信もなかった。
四月にはいると、道綱を側に呼んで「お前も一しょにおし」と言って、いよいよ長精進を初めた。と云っても別にものものしくはせず、ただ脇息《きょうそく》の上に香を盛った土器《かわらけ》を置いたぎりで、その前で一心に仏にお祈りした。その祈る心も只「大へん私は不為合《ふしあわ》せでございました。昔から苦しみばかりの多い身でございましたが、この頃はほんとうにもう生きている空もない程でございます。どうぞ思い切って死なせて、菩提《ぼだい》をかなえさせて下さいませ」などとばかりで、少しさしぐみながらお勤を続けていた。
ああ、一昔前、此頃は女だっても数珠《ずず》をさげ経を手にしていない者はない位だと人々の語るのを聞き、「そんな尼のような御顔をなすっていらっしゃるから寡《やもめ》におなりになるのでしょう」などと非難めいた事まで言った、その頃の自分の心は何処へ行ってしまったのやら。そんな事を私が言っていたのを聞いた人々がもしいまの私を見たら、こうして明け方から日の暮れまで倦《た》ゆまずにお勤しているのを、まあ、どんなに笑止に思うことだろう。こうまで果敢《はか》ない人生をどうしてあんなに気強い事が言えたのかと、いまさらながら昔の自分のそんな無信仰が悔やまれてならないのだった。
そうやって二十日ばかりお勤をしつづけている間に、私は夜分になると何だか苦しいような夢ばかり見せられていたが、或晩などは、私はそんな夢の中で、腹のなかを這いまわっている一匹の蛇のために肝《きも》を食べられていた。――あんまり恐ろしかったので思わず目を覚ましたが、それからまた私がうとうととしかけると、また夢でもって、それを癒すには顔に水を注ぐが好いと、何人とも知れずに教
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