すごすごお帰りになってしまわれたらしかった。おおかた小路の女の所へでも入らしったのだろうと思った。が、朝になって、何だかそのままにして置いても気になるし、それかと云って戸をちょっとお明けしなかった間ぐらいはとも思うものだから、私は「歎きつつひとりぬる夜の明くるまはいかにひさしきものとかは知る」と、いつもよりか少しひきつくろった字で書いて、萎《しお》れかけた菊に挿してやった。すぐ御返事があったが、「私だってお前が戸を明けてくれるのを、夜の明けるまでだって待って見ようとしたのだ。が、折悪しく急ぎの使が来てしまったものだから――」と書いてあるぎりだった。いつもに変らず、こちらがこれほどまでに切ない心もちをお訴えしているものを、あの方はさも事もなげにあしらわれようとしかなさらないのだ。どうしてそんな女の事なんぞを私にもっと出来るだけお隠しなすって、いま暫くなりと、「内裏《うち》へ」――などと仰ゃってでも、私をお瞞《だま》しになっていて呉れられなかったものなのだろうか。

 それからだっても、あの方はいかにも何気ないような御顔をなすって、おりおりお見えにはなったが、それすらだんだん途絶えがちになり、そのうちにその堪え難いほどだった冬も過ぎ、漸《や》っと春が立ち返って、三月になった。三日の節句にも、桃の花なんぞを飾りつけてお待ちしていたのにとうとうお見えにならなかった。近頃姉のもとへしげしげとお通いになって来るいまひと方も、いつもはそんな事など一度もなかったのに、その日だけはどうしたわけか、お見えにならずにしまった。が、その翌日、御ふた方とも打揃ってお見えになった。ゆうべから待ち佗《わ》びていた女房どもが、そのままにしてしまうのも何だからと云って、きのう飾ってあった桃の花を再び取り出してきたので、その花の一と枝を折って手にすると、それはもう少し萎れかかっていた。私はそれを見るとつい胸が一ぱいになって、それに手習でもするような気で「待つほどのきのふ過ぎにし花の枝はけふ折ることぞかひなかりける」などと書き散らしていると、それをいきなりあの方が奪いとられ、その枝をかざしながらお読みになって、「何だ、この歌は。お前とは一生をかけて誓っているのじゃあないか。こんな一年毎に咲く花なんぞとはお前が違っているのを知らないのか」などと、いつもの真面目とも常談ともっかないような調子で、私をお虐《い
前へ 次へ
全33ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング