降りた。そうして心もちも何だか悪いので、すぐ几帳《きちょう》を隔てて、打ち臥していると、其処へ留守居をしていた者がひょいと寄ってきて「瞿麦《なでしこ》の種をとろうとしましたら、根がすっかり無くなっておりました。それから呉竹も一本倒れました、よく手入れをさせて置きましたのですが――」などと私に言い出した。こんなときに言わずとも好い事をと思って、返事もしずに居ると、睡っていられるのかと思っていたあの方が耳ざとくそれを聞きつけられて、障子ごしにいた道綱に向って「聞いているか。こんな事があるよ。この世を背いて、家を出てまで菩提《ぼだい》を求めようとした人にな、留守居のものが何を言いに来たかと思うと、瞿麦がどうの、呉竹がどうのと、さも大事そうに聞かせているぞ」とお笑いになりながら仰ゃると、あの子も障子の向うでくすくす笑い出していた。それを聞くと、私までもつい一しょになっておかしいような気もちになりかけていたが、ふとそんな自分に気がつくが早いか、それがいかにも自分でも思いがけないような気がしながら「私と云うものはたったこれっきりだったのかしらん」と思わずにはいられなかった。……
その夜も更けて、もう真夜中近くになりかかった頃、あの方が急にお気づきになったように「どちらが方塞《かたふさが》りにあたるか」と仰ゃられ出したので、数えて見ると、丁度此方が塞がっていた。「どうしようかな」と、あの方もお当惑なすったように仰ゃって、「ともかくも、一緒に何処かへ移ろうじゃないか」と私をお促しなさるけれど、私は打ち臥したぎり、まあ、こんな事ってあるものかしらと、胸のつぶれるような思いに身を任せながら、しばらくは返事も出来ないほどになっていた。それから私はようやっとの思いで口を開きながら「また他の日にいらっしゃいませ。ほんとうに方《かた》がお明けになってから入らっしゃると好かったのですのに」と諦め切ったように言った。あの方も、とうとう外にしようがなさそうに「例の面自くもない物忌《ものいみ》になったか」とぶつぶつ言われながら、真夜中近くをお帰りになって往かれた。そういうあの方の後ろ姿は、私の心なしか、いつになくお辛そうにさえ見えた。
翌朝、すぐ御文をおよこしになった。その御文も「ゆうべは夜も更けていたのでひどくつらかったぞ。そちらはどうだったな。はやく精進明けをしなさい。大夫も大ぶ窶《やつ》れて
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