し出されていたが、それももう途絶えがちで、夕方になると、お帰りになって往かれた。
そういう兵衛佐などにお目にかかるにつけ、ふいと京恋しさを溜《たま》らないほど覚えたが、それをやっと抑えつけながら、ただお懐しそうに昔物語をし合っただけで、つれなく京へお帰ししてからと云うもの、私が何とはなしに気の遠くなるような思いで数日を過ごしていたところへ、京で留守居をしている人の許《もと》から消息があった。「今日あたり殿がそちらへ御迎えに入らっしゃるように伺いました。この度もまた山をお出なさらないようですと、世間でもあまり強情のように思うでしょうし、それに後になってから、もし山をお出なさりでもしたら、それこそどんなに物笑いの種になりますことやら」などと言ってきた。そんな世間の噂なぞどうだって構いはしないのだ、いくらあの方が御迎えに入らしったって、自分で出たい時にならなければ出やしないから、と私は自分自身に向って言っていた。丁度その日、私の父が田舎から上洛して来たが、京へ著《つ》くなりその足ですぐやって来て下すった。そうしてさまざまな物語をし合った末、父はつくづくと私を御覧になりながら「そうやって暫らくでもお勤をするが好いと私も思っていたが、大ぶ弱られたようだな。もうこの上はなるべく早く出られた方が好いだろう。今日出る気があるなら一緒に出ようではないか。」そんな事を父までがいかにも確信なされるように仰ゃり出すのだった。私はそれにはどう返事のしようもなく、まったく一人で途方に暮れてしまっていたが、そういう私にお気づきになると「じゃ、また明日でもやって来て見よう」と気づかわしそうに言い残されたまま、その日は父も急いで下山なすった。
それから数刻と立たないうちに、大門の外に突然人どよめきがし出した。とうとうあの方が入らしったのだろうと思うと、私はますます一人でもってどうしたら好いか分からなくなってしまった。今度はあの方も遠慮なさらずにずんずん御はいりになって入らっしゃるようなので、私は困って几帳《きちょう》を引きよせて、その陰に身を隠しはしたけれど、もうどうにもならなかった。其処に香や数珠《ずず》や経などが置かれてあるのをあの方は御覧なさると「これは驚いた。まさかこんなにまで世離れていようとはおれも思わなかった。若《も》しかしたら山を下りられはすまいかと思ってやって来て見たが、これ
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