「美しかれ、悲しかれ」
窪川稲子さんに
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蘇《よみがえ》らせられ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)多分|何処《どこ》かの

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]十月六日、鎌倉にて
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[#地から1字上げ]十月六日、鎌倉にて
 お手紙うれしく拝読いたしました。半年ぶりで軽井沢から鎌倉に戻ってきたばかりで、まだ何か気もちも落ちつかないままにお返事を遅らせておって申訳ありません。
 丁度軽井沢を立ってくる前に、いただいた御本の中の「樹々新緑」などをなつかしく拝読して参ったばかりのところへ、又お手紙でその時分のことをいろいろと蘇《よみがえ》らせられ、本当に何から先にとりあげて御返事を書いたらいいのか分らない位です。
 あの頃のこと――あなたがお手紙や「樹々新緑」の中でお書きになったその時分のこと――を思いうかべると、いつも僕の口癖のようになって浮んでくる一つの言葉があります。或る時はフランス語で、〈Sois belle, Sois triste〉と、――又或る時は同じ言葉を「美しかれ、悲しかれ」と。――ときには僕はその文句に「女のひとよ」という一語を自分勝手につけ加えて、口の中でささやいて見ることもある。そうすると僕の裡《うち》にいろんな事が浮んできたものでした。あなたがお書きになっていた、田端《たばた》や日暮里《にっぽり》のあたりの煤《すす》けたような風景や、みんなの住んでいた灰色の小さな部屋々々や、毎夜のようにみんなと出かけていった悲しげな女達の一ぱいいたバアや、それから、二三度そんな若い僕たちの仲間入りをして一しょに談笑せられていた芥川さんがすこし酔い加減になってそういう女達を見まわしながらふいと思い出されたように僕の耳にささやかれたその〈Sois belle, Sois triste〉という言葉だのが……
 それはボオドレエルの一行でした。そのあとでお書きになったものを見ると、そのときの芥川さんにはふいと思い出されたそのボオドレエルの美しい一行が、よほど深く胸におこたえになったものと見えます。
「美しかれ、悲しかれ」――ああ、本当にこの言葉くらい僕に自分の若い時分のことを、その苦痛も歓びも、一しょに思い出させるものはありません。フランシス・ジャムのさまざまな少女を唄った詩集を読んでいたきりぐらいの年少の僕がいきなりみんなの仲間入りをさせられ、みんなの生き抜こうとしていたはげしい青春に面接させられ、どれほど少年らしい戦慄《せんりつ》と好奇心とをもってその新しい生を前にして足ぶみしていたことでしたろう。それはあなた達にさえお分りにならなかったでしょう。そうしてあなた達がそういう僕にどんなに多くのものを与えて下すったか、それも殆どお気づきにはならなかったに違いない。本当に、それに比べれば私があなた達に与えたものなんぞ物の数にもはいらぬことです。
 いわば、そうやって、みんながはげしく生活し、いきいきとした仕事をしだしている傍らで、僕は自分の番がくるのを胸をしめつけられるような気もちで待っていたみたいでした、が漸《やっ》と自分の番が来たかと思ったときには誰ももう居りませんでした。僕は一人きりで愛したり、苦しんだり、それから仕事をしたりしなければならなかった……
 そのうちもっと昔の友達が僕の傍に戻って来てくれたり、新しい仲間がぽつぽつと出来てきたりしました。そうして前よりももっとはげしく文学が語られ、精神上の交易がなされ出しました。しかし、僕の裡に根づいている生命の樹は確かにあなた達が僕に植えつけてくれたもの――或いはそれをあなた達のおかげではじめてそれと気づいたもの、と言わなければなりません。そこに僕の詩の他とは異なる強みもあったわけでした。
 なんだか自分の事ばかり書いてしまいましたね。それにあなたに宛てたのやら、他のみんなに一しょに宛てたのやら、分らないものになりましたが、それというのも、あなたが――ことにあなたの小説だの、お手紙だのが、そのきっかけになったもの故、御免下さい。
 僕、結婚してもう一年半になりますが、始終旅先でばかり暮しているような気のしているせいか、なんだかまだ結婚したばかりのような気もちで、なかなか落ちつけませんでした。これからは大いに落ちついて、この冬じゅうかかりそうな長い仕事に向わなければなりません。僕は自分の新しい生活が――僕[#「僕」に傍点]としてよりも、僕達[#「僕達」に傍点]としての生活が、――自分の今後の仕事の上にどんな影を投げるものか、胸のおどるような期待と、同時に一種の危惧《きぐ》をもたずにはおられません。そんな新しい僕の姿、あなたにはお
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