、通例のごとく身体の健康に飲料が役立つということからではなく、かえって水腫病において起るごとく、或る反対の原因から惹き起されるならば、それがこの場合に欺くということは、反対に身体が健全な状態にあるときにつねに欺くということよりも、遥かにいっそう善いことである。そしてその他の場合についても同様である。
 ところでこの考察は、単に私の本性が陥り易いすべての誤謬に気づくためにのみでなく、またこれらの誤謬を容易に匡《ただ》しあるいは避け得るために、はなはだ多くの貢献をするのである。なぜなら実に、私はすべての感覚が身体の利益に関することがらについて偽よりも真を遥かにしばしば指示することを知っているし、また私は或る同じものを検査するためにほとんどつねにこれらの感覚の多くを使用することができるし、そしてその上に、現在のものを先行のものと結合するところの記憶や、すでに誤謬のすべての原因を洞見したところの悟性をも使用することができるからして、もはや私は毎日感覚によって私に示されるものが偽でありはしないかと恐れることを要せず、かえって過ぐる日の数々の誇張的な懐疑は、笑に値するものとして、追い払わるべきものであるからである。これはとりわけ私が覚醒から区別しなかったところの夢についての極めて一般的な懐疑がそうである。というのは、私は今、両者の間には、夢に現われるものは決して、醒めているときに起るもののように、生涯の余のすべての活動と記憶によって結び附けられないという点において、非常に大きな差別があることを認めるからである。なぜなら実に、もし何者かが、私の醒めているときに、夢において起るごとく突然に私に現われ、そしてすぐ後に消え失せ、かくしてもちろんこの者がどこから来たのかもどこへ去ったのかもわからなかったならば、私がこの者を真実の人間であると判断するよりもむしろ幽霊、または私の脳裡で作られた幻想であると判断するのは、不当ではないであろうから。しかしながら、それがどこから来たか、どこにあるかという場所、またそれがいつ私にやってきたかという時間を私が判明に認めるところの、そしてそれについての知覚を何らの中断もなしに全生涯の他の時期と私が結び附けるところのものが起るときには、それが夢においてではなく、醒めているときに起っていることは、私にまったく確実である。またかかるものの真理について私は、もし、それを検査するためにすべての感覚、記憶及び悟性を召喚した後に、そのうちのいずれによってもその他のものと矛盾するいかなることも私に知らされないならば、わずかなりとも疑うことを要しないのである。なぜなら、神は欺くものではないということから、かかるものにおいて私は過たないということが一般に帰結するからである。しかしながら行動の必要はつねにかように厳密な検査の余裕を与えないゆえに、人間の生活は特殊的なものに関してしばしば誤謬に陥り易いことを告白しなければならず、そして我々の本性の弱さを承認しなければならないのである。
[#改丁]

   幾何学的な仕方で配列された、
     神の存在及び霊魂と肉体との区別を証明する諸根拠


       定義

 一 思惟[#「思惟」に傍点](cogitatio)という語によって私は、我々がそれを直接に意識しているというふうに我々のうちにあらゆるものを包括する。かくして意志、悟性、想像力、及び感覚のすべての働きは、思惟である。しかし私は、思惟から帰結されてくるものを除外せんがために、直接に[#「直接に」に傍点](immediate)という語を附け加えた。例えば、有意運動はたしかに思惟を原理として有するが、それ自身はしかし思惟ではない。
 二 観念[#「観念」に傍点](idea)という語によって私は、その直接の知覚によって私がその同じ思惟自身を意識している、おのおのの思惟の形相(forma)を理解する。かくてすなわち私は、私が言うところのものを私が理解しているとき、まさにこのことからその言葉によって表わされたものの観念が私のうちにあることが確かであるのでなくては、言葉によって何ものも表現することができないのである。そしてかよううにして私は想像のうちに描かれた単なる像を観念と呼ぶのではない、否、私はここでかかるものを、それが身体的な想像のうちに、言い換えると脳の或る部分のうちに描かれている限りにおいては、決して観念とは呼ばず、ただそれが脳のその部分に向けられた精神そのものを形作る限りにおいて、観念と呼ぶのである。
 三 観念の客観的実在性[#「観念の客観的実在性」に傍点](realitas objectiva ideae)ということによって私は観念によって表現されたものの実有性(entitas)を、それが観念のうちにある限りにおいて、理解する。そして同じ仕方で、客観的完全性、あるいは客観的技巧、等々、と言われることができる。というのは、観念の対象のうちにあるもののように我々が知覚するあらゆるものは、観念そのもののうちに客観的にあるのであるから。
 四 同じものは、それが観念の対象のうちに我々がそれを知覚する通りに現われている場合、観念の対象のうちに形相的に[#「形相的に」に傍点](formaliter)あると言われる。また、その通りにではないが、かえってこれを補うことができるほど大きなものである場合、優越的に[#「優越的に」に傍点](eminenter)あると言われる。
 五 我々が知覚する或るもの、言い換えると、その実在的な観念が我々のうちにある或る固有性、あるいは性質、あるいは属性が、それのうちに直接に内在する基体(subjectum)、あるいはそれらを存在せしめるあらゆるもの(res)は、実体[#「実体」に傍点](substantia)と呼ばれる。また厳密な意味における実体そのものについて我々は次のごとき観念しか有しない。すなわち、実体とは、我々が知覚するところの或るものが、つまり我々の観念のいずれかのうちに客観的にあるものが、そのうちでは形相的に、もしくは優越的に存在するところのものである。無は何ら実在的な属性を有し得ないことは、自然的な光によって知られているゆえに。
 六 思惟がそれに直接に内在する実体は精神[#「精神」に傍点](mens)と呼ばれる。私はここで霊魂(amima)というよりもむしろ精神と言う。霊魂といふ語は両義的であって、しばしば物体的なものに適用されるからである。
 七 場所的延長及び延長を前提する偶有性、例えば形体、位置、場所的運動、などの直接の基体である実体は、物体(corpus)と呼ばれる。しかし精神及び物体と呼ばれるものが、一つの同じ実体であるか、それとも二つの相異なる実体であるかは、後に攷究しなければならないであろう。
 八 この上なく完全であると我々が理解し、そしてそのうちに何らかの欠損あるいは完全性の制限を含む何ものもまったく我々が把捉しない実体は、神[#「神」に傍点](Deus)と呼ばれる。
 九 或るものが何らかのものの本性あるいは概念のうちに含まれると、我々が言うとき、そのものがこのものについて真であると、あるいはこのものについて肯定され得ると、言うのと同じである。
 一〇 その一が他を離れて存在し得るとき、二つの実体は実在的に区別されると言われる。

       要請

 第一に[#「第一に」に傍点]、私は、読者が自分の感覚をこれまで信用した根拠がいかに薄弱なものであるか、またその上に築いたすべての判断がいかに不確実なものであるかに注意せられるように、そしてこのことを長い間またしばしば自分の心に思いめぐらし、かくて遂に自分の感覚にもはやあまり多く信頼しない習慣を得られるやうに、要請する。というのはこれは形而上学に関する事がらの確実性を知覚するために必要であると私は判断するから。
 第二に[#「第二に」に傍点]、私は、読者が自分自身の精神並びにその全体の属性を考察せられるように、要請する、これらについては、たとい自分の感覚によってかつて受取ったすべてのものが偽であると仮定しても、疑うことができないことを認められるであろう。そして私は、読者が精神を明晰に知覚し、そしてそれがすべての物体的なものよりも認識するにいっそう容易であると信じる習慣を得るまでは、精神を考察することを止められないように、要請する。
 第三に[#「第三に」に傍点]、それ自身によって知られ、読者が自分において発見するところの命題、例えば、同じものは同時に有ると共にあらぬことはできぬ[#「同じものは同時に有ると共にあらぬことはできぬ」に傍点]、また、無はいかなるものの動力因であることも不可能である[#「無はいかなるものの動力因であることも不可能である」に傍点]、及びこれに類する命題を、注意深く考量し、そしてかようにして自然によって自分に賦与されている、しかし感覚の表象が極めてはなはだしく混乱させ不分明にするのをつねとするところの悟性の明瞭さを、純粋に、感覚から解放して、使用するように、私は要請する。なぜならかような仕方で読者にとって後述の諸公理の真理は容易に明かになるであろうから。
 第四に[#「第四に」に傍点]、私は、読者がそのうちには多くの同時に有する属性の複合が含まれるところの本性の観念を検討するように、要請する、すなわち、三角形の本性、正方形のあるいは何か他の図形の本性、さらにまた精神の本性、物体の本性、そして何よりも神あるいはこの上なく完全な実有の本性はかかる性質のものである。そして読者が、かかる本性のうちに含まれることを我々が知覚するところのすべてのものは、実際にそれらのものについて肯定せられ得ることに注意するように、私は要請する。例えば、三角形の本性のうちにはその三つの角は二直形に等しいということが含まれ、また物体すなわち延長を有するもののうちには可分性が(というのはそれを少くとも思惟によって分割し得ないほど小さな延長を有するものを我々は何ら考え得ないから)含まれるゆえに、すべての三角形の三つの角は二直角に等しい、またすべての物体は可分であると言うのは真である。
 第五に[#「第五に」に傍点]、私は、読者がこの上なく完全な実有の本性の観想に長くまた多くとどまるように、要請する、そして中にも、あらゆる他の本性の観念のうちにはたしかに可能的存在が含まれるが、神の観念のうちにはしかし単に可能的存在のみではなく、また実に必然的存在が含まれることを考察するように、要請する。なぜなら、ただこのことから、そして何等まわりくどい議論なしに、神が存在することを読者は認識するであろう、そしてそれは読者にとって、二が偶数であり、あるいは三が奇数であること、及びこれに類することに劣らず、それ自身によって明かであるであろう。というのは、或る人々にはそれ自身によって明かであることがらであるのに、他の人々には長々しい議論によってでないと理解せられないものがあるからである。
 第六に[#「第六に」に傍点]、私は、読者が私の省察のなかで挙げたところの、明晰で判明な知覚のすべての例、さらにまた不明瞭で不分明な知覚のすべての例を熟考することによって、明晰に認識せられるものを不明瞭なものから直別することに慣れるように、要請する。なぜなら、これは規則によってよりも例によっていっそう容易に学ばれるから、そして私はかしこでこのことがらのすべての例を説明したか、あるいは少くとも或る程度触れておいたと思う。
 第七に[#「第七に」に傍点]、そして最期に、私は、読者が明晰に知覚したもののうちには決して何等の虚偽も発見せず、反対にただ不明瞭に把捉したもののうちには偶然によるほか何らの真理も見出さなかったことに注意することによつて、単に感覚の先入見に基づいて、あるいは何か知られていないものを含む仮説に基づいて、純粋な悟性によって明晰にかつ判明に知覚せられるところのものに疑いをいれることは、まったく不合理であるということを考察するように、要請する。なぜ
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