なら、かようにして読者は容易に後述の諸公理を真で疑われないものとして認めるであろうから。もっともたしかに、そのうちの多くは、いっそうよく説明せられることができたであろうし、またもし私がいっそう厳密であることを欲したならば、公理としてよりむしろ定理として提示せられねばならなかったであろう。
公理
あるいは
共通概念
一 何故に存在するかの原因を尋ねられ得ないような何物も存在しない。なぜなら、これは神そのものについて尋ねられ得るから、神は存在するために何らかの原因を必要とするというのではなく、かえって神の本性の無辺性そのものが存在するために何らの原因をも必要としない原因あるいは根拠であるゆえにである。
二 現在の時は最近接的に先行する時に依存しない、従ってものを維持するためには、それを初めて作り出すためによりもいっそう小さい原因が要求せられるのではない。
三 いかなるものも、またもののいかなる現実的に存在する完全性も、無(nihil)すなわち存在しないものを、自己の存在の原因として有することができぬ。
四 或るもののうちに有するいかなる実在性すなわち完全性も、このものの第一のかつ十全的な原因のうちに形相的に、あるいは優越的に存する。
五 そこからしてまた、我々の観念の客観的実在性は、この同じ実在性をば単に客観的にではなくて形相的に、あるいは優越的に含むところの原因を必要とするということが、帰結する。そしてこの公理は、ただこの一つのものに、感覚的な並びに非感覚的なあらゆるものの認識が依存するというほど、認められることが必要であることに、注目しなければならない。なぜなら、どこから我々は、例へば、天が存在することを知るのであるか。それを我々が見るゆえにであろうか。しかるにこの視覚は、観念である限りにおいてのほか、精神に触れない、ここに観念と言うのは、精神そのものに内属するものをいうのであって、室想のうちに描かれた像をいふのではない。そしてこの観念に基づいて我々が天は存在すると判断することができるのは、ただ、あらゆる観念は自己の客観的実在性の実在的に存在する原因を有しむければならぬという理由によるのである。そしてこの原因は天そのものであると我々は判断するのである。その他の場合についても同様てある。
六 実在性の、すなはち実有性の、種々の度がある。なぜなら、実体は偶有性あるいは様態よりもいっそう多くの実在性を有し、また無限な実体は有限な実体よりもいっそう多くの実在性を有するから。従ってまた実体の観念のうちには偶有性の観念のうちによりもいっそう多くの客観的実在性が有し、また無限な実体の観念のうちには有限な実体の観念のうちによりもいっそう多くの客観的実在性が存する。
七 思惟するものの意志は、たしかに有意的にかつ自由に(なぜならこれは意志の本質に属するのであるから)、しかしそれにもかかわらず謬ることなく、自分に明晰に認識せられた善に赴く。従って、もし自分に欠けている何等かの完全性を知るならば、それを直ちに、もしそれが自分の力の及ぶところにあるならば、自分に与えるであろう。
八 いっそう大きなことあるいはいっそう困難なことを為し得るものは、またいっそう小さいことをも為し得る。
九 実体を創造しあるいは維持することは、実体の属性すなわち固有性を創造しあるいは維持することよりも、いっそう大きなことである。しかしながら、既に言ったごとく、同じものを創造することは、それを維持することよりも、いっそう大きなことではない。
一〇 あらゆるものの観念あるいは概念のうちには存在が含まれる。なぜなら我々は存在するものの相のもとにおいてでなければ何物も把捉し得ないのであるから。もとより、制限せられたものの概念のうちには可能的あるいは偶然的存在が含まれ、しかしこの上なく完全な実有の概念のうちには必然的にして完全な存在が含まれる。
定理一
[#ここから2字下げ]
神の存在はその本性の単なる考察から認識せられる。
[#ここで字下げ終わり]
証明
或るものが何らかのものの本性あるいは概念のうちに含まれると言うことは、そのものがこのものについて真であると言うことと、同じである(定義九によって)。しかるに神の概念のうちには必然的存在が含まれる(公理一〇によつて)。ゆえに神について、神のうちには必然的存在が存する、あるいは神は存在する、と言うことは真である。
しかるにこれは、既に上に第六駁論に応えて私が用いたところの三段論法である。そしてその結論は、要請五において言われたよううに、先入見から解放せられている人々に対してはそれ自身によって明かなものであり得る。しかしかような明察に達することは容易でないゆえに、我々は同じことを他の仕方で追求することを試みよう。
定理二
[#ここから2字下げ]
神の存在は単にその観念が我々のうちにあるということから、ア・ポステリオリに証明せられる。
[#ここで字下げ終わり]
証明
我々の観念のいかなるものの客観的実在性も、この同じ実在性をば単に客観的にではなく、形相的に、あるいは優越的に、含むところの原因を必要とする(公理五によって)。しかるに我々は神の観念を有する(定義二及び八によって)、そしてこの観念の客観的実在性は形相的にも優越的にも我々のうちに含まれない(公理六によって)、またそれは神そのもののうちにのほか他のいかなるもののうちにも含まれることができない(定義八によって)。ゆえに我々のうちにあるところのこの神の観念は、神を原因として必要とする、従って神は存在する(公理三によって)。
定理三
[#ここから2字下げ]
神の存在はまたその観念を有するところの我々自身が存在するということからも証明せられる。
[#ここで字下げ終わり]
証明
もし私が私自身を維持する力を有するならば、なおさら私はまた私に欠けているところの完全性を私に与える力を有するであろう(公理八及び九によって)。なぜならこれらの完全性は単に実体の属性であり、私はしかるに実体であるから。しかしながら私はこれらの完全性を私に与える力を有しないのである、なぜなら、さもなければ私は既にそれらを有しているであろうから(公理七によって)。ゆえに私は私自身を維持する力を有しない。
次に、私は、私が存在する間は、もし実に私がその力を有するならば、私自身によって、あるいはその力を有する他のものによって、維持せられるのでなければ、存在することができぬ(公理一及び二によつて)。ところで私は存在するが、しかもまさにいま証明せられたように、私自身を維持する力を有しない。ゆえに私は他のものによって椎持せられる。
なおまた、私を維持するものは自己のうちに、私のうちにある一切を形相的に、あるいは優越的に、有する(公理四によって)。しかるに私のうちには私に欠けているところの多くの完全性の知覚と同時に神の観念の知覚が存する(定義二及び八によって)。ゆえにまた私を維持するもののうちにも同じ完全性の知覚が存する。
最後に、この同じものは、自己に欠けているところの完全性の、すなわち自己のうちに形相的にあるいは優越的に有しないところの完全性の、知覚を有し得ない(公理七によって)。なぜなら、既に言われたごとく、このものは私を維持する力を有するからして、なおさらかかる完全性を、もし欠けているならば、自分に与える力を有するであろうから(公理八及び九によって)。しかるにこのものは、いましがた証明せられたように、私に欠けていてただ神のうちに存し得ると私が考えるところのすべての完全性の知覚を有する。ゆえにこのものはそれらの完全性を形相的にあるいは優越的に自己のうちに有し、かくして神である。
系
[#ここから2字下げ]
神は天と地と及びそのうちに存する一切を創造した。なおまた神は我々が明晰に知覚するあらゆるものを我々がこれを知覚する通りになし得る。
[#ここで字下げ終わり]
証明
このすべては前の定理から明晰に帰結する。すなわちこの定理において神の存在することが、我々のうちにその或る観念の有するすべての完全性が形相的にあるいは優越的にそのうちに存するところの或る者が存在しなくてはならぬということから証明せられた。しかるに我々のうちにはあるいとも大きな力の、すなわちただこの力がそのうちに存するところのものによつて、天と地、等々が創造せられ、また私が可能なものとして理解する他のすべてのものもこの同じものによって作られ得るというほど大きな力の観念が存する。ゆえに神の存在と同時にこのすべてがまた神について証明せられたのである。
定理四
[#ここから2字下げ]
精神と身体とは実在的に区別せられる。
[#ここで字下げ終わり]
証明
我々が明晰に知覚するあらゆるものは、神によって、我々がこれを知覚する通りに、作られ得る(前の系によって)。しかるに我々は精神を、言い換えると、思惟する実体をば、物体を離れて、言い換えると、何等かの延長を有する実体を離れて、明晰に知覚する(要請二によって)。また逆に物体をば精神を離れて知覚する(すべての人々が容易に認容するごとく)。ゆえに、少くとも神の力によって、精神は身体なしに存することができ、また身体は精神なしに存することができる。
ところでいま、その一が他を離れて有し得るところの実体は、実在的に区別せられる(定義一〇によって)。しかるに精神と物体とは実体であり(定義五、六、七によって)、そしてその一は他を離れて存することができる(たったいま証明せられたごとく)。ゆえに精神と身体とは実在的に区別せられる。
註。私はここで神の力を媒介として使用したが、それは精神を身体から分離するために何らかの異常なカが必要であるからではなく、かえって私は前の諸定理においてただ神についてのみ取扱ったからして、他に使用し得るものを有しなかったゆえである。またいかなる力によつて二つのものが分離せられるかは、両者が実在的に異なっていると我々が認識するためには、無関係である。
底本:「省察」岩波文庫、岩波書店
1933(昭和8)年12月20日第13刷発行
※原題の副題の「〔DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A` CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.〕」は、ファイル冒頭ではアクセント符号を略し、「DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.」としました。
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「恰も→あたかも 或いは→あるいは 如何→いか (て)戴→いただ 至って→いたって 一層→いっそう 恐らく→おそらく 拘らず→かかわらず 且つ→かつ 嘗て→かつて かも知れ→かもしれ 蓋し→けだし 此処・茲→ここ 如→ごと 毎→ごと 悉く→ことごとく 更に→さらに 然るに→しかるに 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 是非→ぜひ 多分→たぶん 給→たま 何処→どこ 何れ→どれ 乃至→ないし 筈→はず 甚だ→はなはだ 殆ど→ほとんど 先ず→まず 復た→また 間もなく→まもなく (て)見→み 尤も→もっとも 専ら→もっぱら (て)貰→もら 故→ゆえ 僅か→わずか」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付した。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:
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