いうことを私に説得する根拠が存するに過ぎないのである。さらに、たといまた或る空間のうちに感覚に影響を与える何物も存しないにしても、だからといってこの空間のうちには何らの物体も存しないということは帰結せず、かえって私は、私がこの場合に、また他の非常に多くの場合に、自然の秩序を歪曲するのを慣わしとすることを見るのである。なぜなら実に、感覚の知覚は本来ただ精神に、精神がその部分であるところの合成体にとっていったい何が都合好いものあるいは都合悪いものであるかを指示するために、自然によって与えられており、そしてその限りにおいて十分に明晰で判明であるが、私はこの知覚をあたかも我々の外に横たわる物体の本質がいったい何であるかを直接に弁知するための確実な規則であるかのように使用するのであって、かかる本質についてはしかるにこの知覚は極めて不明瞭にそして不分明にでなければ何物も指示しないからである。
 ところで既に前に私は、どういうわけで、神の善意にもかかわらず、私の判断の偽であることが生ずるのかという理由を十分に洞見した。しかしながらここに、あたかも追い求むべきものあるいは避け逃るべきもののように自然によって私に示されるものそのものに関して、さらにまた私がそのうちにおいて誤謬を発見したと思われる内部感覚に関して、新しい困難が現われる。例えば、ひとが或る食物の快い味に欺かれて、中に隠されている毒をも一緒に取る場合のごときがそれである。しかしもちろん、この場合、彼はただそのうちに快い味が存するものを欲求するように自然によって駆り立てられるのであって、彼がまったく知らない毒を欲求するように駆り立てられるのではない。かくてここから結論せられ得ることは、この自然は全智ではないということ以外の何物でもないのである。そしてこれは驚くべきことではない、なぜなら、人間は制限せられたものであるゆえに、彼には制限せられた完全性しかふさわしくないから。
 しかし実に我々が自然によって駆り立てられるものにおいてさえも我々が過つことは稀ではない。例えば、病気である人々がすぐ後に自分に害をなすべき飲料あるいは食物を欲求する場合のごときがそれである。この場合たぶん、彼等は彼等の自然が頽廃しているために過つのである、と言われることができるであろう。しかしながらこれは困難を除くものではない。なぜなら、病気の人間は健康な人間に劣らず真実に神の被造物であり、従ってまた前者が神から欺くところの自然を授けられているということは後者がそうであるということに劣らず矛盾であると思われるから。そして歯車と錘とから出来ている時計が、悪く作られていて時刻を正しく示さないときにも、あらゆる点で製作者の願いを満足させるときに劣らず正確に、自然のすべての法則を遵守するように、そのようにまた、もし私が人間の身体をば、骨、神経、筋肉、脈官、血液及び皮膚から、たといそのうちに何ら精神が存在しなくともなお、現在そのうちに、意志の命令によってではなく、従って精神によってではなく、行われているのと同じすべての運動を有するように、調整せられ合成せられているところの或る種の機械として見るならば、この身体にとって、もし、例えば、水腫病を患っているならば、かの精神に渇きの感覚をもたらすのをつねとするのと同じ咽喉の乾きに悩み、そしてまたこの乾きによってその精神及びその他の部分が、病気を重くすることになる飲料をとるように、配置せられるということは、この身体のうちに何らかかる欠陥が存しないときに、咽喉の同様の乾きによって自分に有益な飲料をとるように動かされるということと等しく、おそらく自然的であるのを、私は容易に認めるのである。そしてたとい、時計のあらかじめ意図せられた用途を顧るならば、時刻を正しく示さないときには、それは自己の自然からそれていると言うことができるにしても、また同じように、人間の身体の機械をあたかもそのうちにおいて生ずるのをつねとする運動のために調整せられたもののごとくに見るならば、もし、飲料が身体そのものの保存に役立たないときに、その咽喉が乾いているとすれば、それはまた自己の自然からはずれていると考えるにしても、しかし私は自然のこの後の意味が前の意味とははなはだ異なることに十分に気づくのである。なぜなら、後の意味での自然は、病気の人間や悪く作られた時計を健康な人間の観念や正しく作られた時計の観念と比較する私の思惟に依存するところの規定以外の何物でもなく、そしてそれは、それについて語られるものに対して外面的な規定であり、しかるに前の意味においては、自然というものは、実際にもののうちに見出される或るもの、従って或る真理を有するあるものであるからである。
 しかしながら確かに、水腫病を患っている身体について見るならば、飲料を必要としないのに渇いた咽喉を有するということから、その自然は頽廃していると言われるとき、それは単に外面的な規定であるにしても、しかし合成体、すなわちかかる身体と合一せる精神について見るならば、飲料が自分に害をするであろうときに渇くということは、単なる規定ではなく、かえって自然の真の誤謬である。従ってここに追求すべく残っているのは、いかにして神の善意はかように解せられた自然が欺くものであることを妨げないのであるか、ということである。
 ところで私はここにまず第一に、精神と身体との間には、身体は自己の本性上つねに可分的であり、しかるに精神はまったく不可分的であるという点において、大きな差異が存することを認めるのである。というのは実に、私が後者、すなわち単に思惟するものである限りにおける私自身を考察するとき、私は私のうちに何らの部分をも区別することができず、かえって私は私がまったく一にして全体的なものであることを理解するからである。そしてたとい全体の精神が全体の身体に結合せられているかのように思われるにせよ、しかし足、あるいは腕、あるいはどのような他の身体の部分を切り離しても、私はそのために何物も精神から取り去られていないことを認識する。なおまた意欲の能力、感覚の能力、理解の能力、等々は、精神の部分と言われることができない、なぜなら、意欲し、感覚し、理解するのは一にして同じ精神であるから。しかるにこれに反して、私が思惟によって容易に部分に分割し、そしてまさにこれによってそれが可分的であることを私の理解しないような物体的ないかなるものも、すなわち延長を有するものも私によって思惟せられることができないのである。この一事は、精神が身体とはまったく異なっていることをば、もしまだ私がこのことを他のところから十分に知らないならば、私に教えるに足りるであろう。
 次に私は、精神が身体のすべての部分からではなく、ただ脳髄から、あるいはおそらくそれのみでなく単に一つの極めて小さい部分、すなわちそこに共通感覚が存すると言われる部分から、直接に影響せられるということを、認めるのである。この部分は、ここで数え上げることを要しない無数の経験の証明するごとく、それが同じ仕方で配置せられるときはつねに、たといその間に身体のその他の部分は種々異なる状態にあることができるにしても、精神に同一のものを示すのである。
 さらに私は、物体のいかなる部分も他のなにほどか遠く隔っている部分によって、たといこのいっそう遠く隔っている部分が何ら動かないにしても、その間に横たわっている部分のうちの何らかのものによってまた同じ仕方で動かされ得るのでないと、動かされ得ないということが、物体の本性であるのを認めるのである。すなわち、例えば、A・B・C・Dなる綱において、その最後の部分Dが引かれる場合、最初の部分Aは、最後の部分Dが動かないままに止まっていて中間の部分のうちの一つBあるいはCが引かれた場合にまたそれが動かされ得るのと別の仕方で動かされないであろう。これと同様の理由によって、私が足の苦痛を感覚する場合、自然学は私に、この感覚は足を通じて拡がっている神経の助けによって生ずるのであって、この神経は、そこから脳髄へ連続的に綱のごとくに延びていて、足のところで引かれるときには、その延びている先の脳髄の内部の部分をまた引き、このうちにおいて、精神をして苦痛をばあたかもそれが足に存在するものであるかのごとくに感覚せしめるように自然によって定められているところの或る一定の運動を惹き起すのである、ということを教えるのである。しかるにこれらの神経は、足から脳髄に達するためには、脛、腿、腰、脊及び頸を経由しなくてはならぬゆえに、たといこれらの神経の足のうちにある部分が触れられなくて、ただ中間の部分の或るものが触れられても、脳髄においては足が傷を受けたときに生ずるのとまったく同じ運動が生じ、そこから必然的に精神は足においてそれが傷を受けたときのと同じ苦痛を感覚するということが起り得るのである。そして同じことが他のどのような感覚についても考えられねばならない。
 最後に私は、直接に精神に影響を与えるところの脳髄の部分において生ずる運動のおのおのは、精神に或る一定の感覚しかもたらさないのであるからして、この場合、この運動が、それのもたらし得るあらゆる感覚のうち、健康な人間の保存に最も多くかつ最もしばしば役立つところのものをもたらすということよりもいっそう善いいかなることも考え出され得ないということを認めるのである。しかるに経験は自然によって我々に賦与せられたすべての感覚がかくのごとき性質のものであることを証している。従ってそのうちには神の力並びに善意を証しない何物もまったく見出されないのである。かようにして、例えば、足のうちにある神経が激しくそして通例に反して動かされるとき、その運動は、脊髄を経て脳髄の内部の部分に達し、そこにおいて精神に或るものを、すなわち苦痛を、あたかも足に存在するもののごとくに、感覚せしめるところの合図を与え、これによって精神は苦痛の原因をば足に害をするものとして自分にできるだけ取り除くように刺戟せられるのである。もっとも、人間の本性は、この脳髄における同じ運動が精神に何か他のものを示すように、すなわちあるいはこの運動そのものを、脳髄にある限りにおいて、あるいは足にある限りにおいて、あるいは両者の中間の場所のうちのどこかにある限りにおいて、示すように、あるいは最後に何かもっと他のものを示すように、神によって仕組まれることができたであろう。しかしながらこれらの他のいずれのものも身体の保存に右にいったものと同等に役立たなかったであろう。同じように、我々が飲料を必要とするとき、これによって或る種の乾きが咽喉に起り、その神経を動かし、そしてこの神経を介して脳髄の内部を動かし、そしてこの運動は精神に渇きの感覚を生ぜしめる。なぜなら、この全体のことがらにおいて、健康状態の維持のためには我々は飲料を必要とすることを知るということよりも、我々にとっていっそう有用なことは何もないのであるから。そしてその他の場合についても同様である。
 これらのことから、神の広大無辺なる善意にもかかわらず、精神と身体とから合成せられたものとしての人間の本性が、時には欺くものであらざるを得ないことは、まったく明白である。というのは、もし或る原因が、足においてではなく、神経が足からそこを経て脳髄へ拡がっている部分のうちのどこかにおいて、あるいは脳髄そのものにおいてさえも、足が傷を受けたときに惹き起されるのを常とするのとまったく同じ運動を惹き起すならば、苦痛はあたかも足にあるもののごとくに感覚せられ、かくして感覚は自然的に欺かれるから。なぜなら、この脳髄における同じ運動はつねに同じ感覚をしか精神にもたらすことができず、そしてこの運動は他のところに存在する他の原因によってよりも足を傷つける原因によって遥かにしばしば惹き起されるのをつねとするゆえに、この運動が他の部分の苦痛よりもむしろ足の苦痛を精神につねに示すということは、理に適ったことであるからである。またもし時に咽喉の乾きが
前へ 次へ
全18ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
デカルト ルネ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング