く知り始めるに至って、感覚によって得ると思われるすべてのものは、もちろん軽々しく容認せらるべきではないが、しかしまたそのすべてのものに疑いをいれるべきでもない、と私は考えるのである。
 そしてまず第一に、私が明晰かつ判明に理解するすべてのものは、私が理解する通りのものとして神によって作られ得ることを私は知っているからして、或る一つのものが他のものと異なることが私に確実であるためには、私がその一つのものをば他のものを離れて明晰かつ判明に理解し得るということで十分である。なぜならそのものは少くとも神によって分離して措定せられることができるから。それに、そのものが異なるものと思量せられるためには、いかなる力によってかく分離して措定せられるということが生ずるかは、問題にならない。かようにして、まさにこのこと、すなわち、私は存在することを私が知っているということ、しかも、私は思惟するものであるということのみのほか他の何ものもまったく私の本性すなわち私の本質に属しないことに私が気づいているということから、私の本質はこの一つのこと、すなわち私は思惟するものであるということに存することを、私は正当に結論するのである。そしてたとい私はたぶん(あるいはむしろ、すぐ後に言う通り、確かに)私と極めて密接に結合せられているところの身体を有するにしても、しかし一方では、私が延長を有するものではなくてただ思惟するものである限りにおいて、私は私自身の明晰で判明な観念を有し、そして他方では、物体が思惟するものではなくてただ延長を有するものである限りにおいて、私は物体の判明な観念を有するゆえに、私が私の身体から実際に区別せられたものであるということ、そして私がこの身体なしに存在し得るということは、確かである。
 なおまた私は私のうちに思惟の仕方における或る特殊な能力、すなわち想像の能力や感覚の能力を発見するが、私はこれらの能力なしに全体としての私を明晰かつ判明に理解することができるに反し、逆にこれらの能力は私なしには、言い換えるとこれらの能力がそのうちに内在する思惟的実体なしには理解せられることができない。なぜなら、これらの能力は自己の形相的概念のうちに或る悟性作用を含み、そこから私は、あたかも様態が物から区別せられているごとく、これらの能力が私から区別せられていることを知覚するからである。さらにまた私は或る他の能力、例えば場所を変じる能力、種々の形体をとる能力、その他これに類するものを認知するが、これらの能力もたしかに、前のものと同じく、これらの能力がそのうちに内在する或る実体を離れては理解せられることができず、従ってまたこの実体を離れては存在することができない。むしろこれらの能力が、もしたしかに存在するならば、物体的実体すなわち延長を有する実体に、しかし思惟的実体にではなく、内在しなくてはならぬということは明瞭である。なぜなら、これらの能力の明晰で判明な概念のうちには、もちろん或る延長が含まれるが、しかしいかなる悟性作用もまったく含まれないからである。しかるに今たしかに私のうちには感覚する或る受動的な能力、すなわち感覚的なものの観念を受取り認識する能力があるが、しかし私はこれをば、もし私のうちに、あるいは他のもののうちに、或る能動的な、かかる観念を生産するあるいは実現する能力がまた存在しなかったならば、何ら用い得なかったであろう。しかもこの能動的な能力は実に私自身のうちに存することができない。なぜなら、それはいかなる悟性作用をもまったく予想しないし、またかかる観念は私が協力することなしに、かえってしばしば私の意志に反してさえ生産せられるから。ゆえにそれは私とは別の或る実体のうちに存すると考えるほかはない。そしてこの実体のうちには(既に上に注意したごとく)この能力によって生産せられた観念のうちに客観的に有る一切の実在性が形相的にか優越的にか内在しなくてはならないからして、この実体は物体、すなわちもちろんかかる観念が客観的に含む一切のものを形相的に含むところの物体的本性であるか、それとも神そのものであるか、それともかかる一切のものを優越的に含むところの、物体よりも高貴な或る被造物であるかである。しかるに、神は欺瞞者でないゆえに、神がかかる観念を、直接に自己自身によって私に伝えるのではないこと、またかかる観念の客観的実在性をば形相的にではなく単に優越的に含むところの或る被造物の媒介によって私に伝えるのでもないことは、まったく明白である。なぜなら、神はこれがそのような被造物の媒介によるのであると認知するいかなる能力をもまったく私に与えなかったし、かえって反対にかかる観念が物体的なものから発すると信じる大きな傾向性を私に与えたのであるから、もしかかる観念が物体的なものからよりほかの他のところから発したとしたならば、どういうわけで神が欺瞞者でないことが理解せられ得るのか私にはわからないからである。従って、物体的なものは存在する。しかしおそらくそのすべてはまったく私がそれを感覚によって把捉するがごときものとして存在するのではなかろう、この感覚の把捉は多くの場合極めて不明瞭であり不分明であるから。しかしながら少くともそのうちにおいて私が明晰かつ判明に理解する一切のもの、言い換えると、一般的に見るならば、純粋数学の対象のうちに包括せられる一切のものは、実際に有るのである。
 しかるにその余のものについていえば、それらのものは、例えば、太陽はかくかくの大きさまたは形体のものである、等々のごとく、単に特殊的なものであるか、それとも、例えば、光、音、苦痛、及びこれに類するものののごとく、より少く明晰に理解せられたものであるかであるが、たといそれらのものは極めて疑わしい不確実なものであるにしても、しかもまさにこのこと、すなわち、神は欺瞞者ではないということ、従ってまた私の意見のうちにはいかなる虚偽も、これを訂正する或る能力がまた私のうちに神によって賦与せられている場合のほかは、見出されることがあり得ないということは、それらのものにおいてもまた真理に達し得る確実な希望を私に示すのである。そして実に自然によって教えられるすべてのものが何らかの真理を有するはずであるということは疑い得ないことである。なぜなら、私がいま一般的に見られた自然というのは、神そのもの、それとも神によって制定せられたところの被造物の整序以外の何物でもなく、また特殊的に私の自然というのは、神によって私に賦与せられたすべてのものの集合体以外のものではないからである。
 ところで、私が身体を有すること、すなわち、私が苦痛を感覚するときにはその具合が悪く、そして私が飢えまたは渇きに悩むときには食物あるいは飲料を必要とし、等々といった、身体を有することよりもいっそう明白にこの自然が私に教えることは何もない。従ってまたこのことのうちに或る真理が存することを私は疑うべきではないのである。
 また自然はこれら苦痛、飢え、渇き、等々の感覚によって、あたかも水夫が船のなかにいるごとく私が単に私の身体のなかにいるのみでなく、かえって私がこの身体と極めて密接に結合せられ、そしていわば混合せられていて、かくてこれと或る一体を成していることを教えるのである。というのは、もしそうでないとすれば、身体が傷つけられるとき、私すなわち思惟するもの以外の何物でもない私は、そのために苦痛を感じないはずであり、かえってあたかも水夫が船のなかで何かが毀れるならば視覚によってこれを知覚するごとく、私はこの負傷を純粋な悟性によって知覚するはずであり、また身体が食物あるいは飲料を必要とするとき、私は単純にこのことを明白に理解し、飢えや渇きの不分明な感覚を有しないはずであるからである。なぜなら確かに、これら渇き、飢え、苦痛、等々の感覚は、精神と身体との結合と、いわば混合とから生じた或る不分明な思惟の仕方にほかならないから。
 さらにまた私は自然によって、私の身体のまわりに、その或るものは私にとって追い求むべきものであり、或るものは避け逃るべきものであるところの、他の種々異なる物体が存在することを教えられる。そして確かに、私が極めて異なる色、音、香、味、熱、堅さ、及びこれに類するものを感覚するということから、私は、これら種々に異なる感覚の知覚がそこからやってくる物体のうちに、これらの知覚にたといおそらく類似していないにしても対応している或る異種性が存する、と正当に結論するのである。なおまた、かかる知覚のうち或るものは私にとって快適であり、或るものは不快であるということから、私の身体が、あるいはむしろ、私が身体と精神とから成っている限りにおいて、全体としての私が、そのまわりを取り繞っている物体によって、あるいは都合好く、あるいは都合悪く、種々異なる仕方で影響せられ得るということは、まったく確かである。
 しかしながら、自然が私に教えたもののように見えても、実際は自然からではなく、かえって無思慮に判断する或る習慣から私が受取った他の多くのものがある、従って容易にこれらのものは偽であることが生じ得る。すなわち、その中には私の感覚に影響を与える何ものもまったく現われない一切の空間は真空であるとすること、また、例えば、熱い物体のうちには私のうちにある熱の観念にまったく類似する或るものがあり、白い物体または緑の物体のうちには私の感覚するのと同じ白または緑があり、苦い物体または甘い物体のうちにはこれと同じ味があり、その他の場合にも同様のことがあるとすること、また、星や塔、その他何でも遠く離れた物体は単に私の感覚に現われるのと同じ大きさや形体のものであるとすること、その他この種のことが、それである。しかるに、これらのことがらにおいて私が十分に判明に知覚しない何ものもないようにするためには、私が或ることを自然によって教えられると言うとき、何を本来意味するかをいっそう厳密に定義しなくてはならぬ。すなわち私はここに自然をば、神によって私に賦与せられたすべてのものの集合体という意味よりもいっそう狭い意味に解する。というのは、この集合体のうちにはただ精神のみに属する多くのもの、例えば、為されたことは為されなかったことであることができぬと私が知覚すること、及びその他、自然的な光によって知られているすべてのものが、含まれるが、これらについてはここでは言及しないし、またそのうちにはさらに、ただ物体のみに関する多くのもの、例えば、物体は下に向うということ、及びこれに類すること、が含まれるが、これらについてもまたここでは問題でなく、かえってただ、精神と身体とからの合成体としての私に、神によって賦与せられたもののみが問題なのであるからである。従ってまた、この自然はたしかに、苦痛の感覚をもたらすものを避け逃れ、そして快楽の感覚をもたらすものを追い求むること、及びかかる性質のことを教えるが、しかしこの自然がその上になお、これらの感覚の知覚から、悟性のあらかじめの考査なしに、我々の外に横たわるものについて何かを結論することを我々に教えるということは明かではないのである、なぜなら、かかるものについて真を知るということはただ精神のみに属し、合成体には属しないように思われるから。かようにして、たとい星は私の眼を小さい松明の火よりもいっそう多くは刺戟しないにしても、かかる合成体としての私のうちにはしかし星がこの火よりも大きくないと信ぜしめる何らの実在的なあるいは積極的な傾向性も存せず、かえって私は根拠なしに若い時分からこのように判断したのである。また、たとい火に近づくと私は熱を感覚し、そして余りに近くそれに近づくと私は苦痛を感覚しさえするにしても、実際、火のうちにはこの熱に類似する或るものがあると、またこの苦痛に類似する或るものがあると、私に説得する何らの根拠も存せず、かえってただ、火のうちには我々においてこれらの熱あるいは苦痛の感覚を喚び起す或るもの――それが結局どのようなものであろうとも――があると
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