に内在するのではなく、また神に依存する限りにおいての作用のうちに内在するのでもない。
 そこで私は、神が私に与えたよりもいっそう大きな理解の力、すなわちいっそう大きな自然的な光を私に与えなかったということを訴うべき何らの理由も有しない。なぜなら、多くのものを理解しないということは有限な悟性にとって当然であり、そして有限であるということは創造せられた悟性にとって当然であるから。むしろ私は、決していかなるものをも私に負わないところの神に、彼から授けられたものに対して、感謝すべきであるのであって、彼が私に与えなかったものをば、彼によって私が奪われたもの、すなわち彼が私から引き上げたものと考うべきではないのである。
 なおまた私は、神が私に悟性よりもいっそう広く及ぶところの意志を与えたということを訴うべき理由を有しない。なぜなら、意志はただ一つのもの、そしていわば不可分のものに存するゆえに、その本性は何らかのものがそれから取り去られ得ることを許さないと思われるから。そして実に、かかる意志が広大であれば広大であるだけ、ますます大きな感謝を私はこれを与えた者に対して負うのである。
 また最後に、私がそれにおいて過つところの判断、すなわち意志の作用を喚び起すために神が私と協力するということもまた、私は歎いてはならない。なぜなら、この作用は、それが神の依存する限りにおいては、まったく真であり善であるし、また私がこれを喚び起し得るということは、もしかしたら喚び起し得なかったということよりも、私において或る意味でいっそう大きな完全性であるからである。しかるに、虚偽と罪過との形相的根拠がただそれにのみ存するところの欠存は、神の何らの協力をも必要としない、それは何ら実在的なものではなく、そしてもしその原因として神に関係させられるならば、それは欠存と言わるべきではなく、かえってただ否定と言わるべきであるから。なぜなら実に、その明晰かつ判明な知覚を神が私の悟性のうちに置かなかったところのものに対して、同意しもしくは同意しない自由をば神が私に与えたということは、神における何らの不完全性でもなく、かえって、私がかかる自由を善く使用せず、私の正確に理解しないところのものについて私が判断を下すということは、疑いもなく私における不完全性であるからである。しかしながら、たとい私が自由であること、そして有限な認識を有するものであることはもとのごとくであるにしても、私が決して過たないようにするということは、神によって容易になされ得たと思う。すなわち、もし神が私の悟性に、私のいつか商量するであろうすべてのものの明晰で判明な知覚をば、賦与したか、それともただ私の記憶に、私の明晰にそして判明に理解しない何物についても決して判断してはならないということをば、私が決してこれを忘れ得ないほど堅く刻みつけたか、すれば宜かったわけである。そしてもし私がかくのごときものであるように神によって作られていたならば、私は、私が或る全体としての意味を有する限りにおいては、現在私があるよりもいっそう完全であったろう、ということをば私は容易に理解する。しかしながら、だからといって、宇宙の或る部分は誤謬から免れていないが他の部分は免れているという場合のほうが、すべての部分がまったく類似しているという場合よりも、宇宙という全体のうちには或る意味でいっそう大きな完全性が存するはずであるということを、私は否定し得ない。そして神は私が世界においてすべてのうち最も主要であり最も完全である役を受持つことを欲しなかったからとて、私は訴うべき何らの権利をも有しないのである。
 またさらに、私は上述の第一の仕方で、すなわち商量せらるべきすべてのものの明証的な知覚に依存するところの仕方で、誤謬を絶つことができないにしても、私はもう一つの仕方で、すなわちただ、ものの真理が私に明白でないたびごとに、判断を下すことを差し控えるべきであることを想起するということに依存するところの仕方で、誤謬を絶つことができるのである。なぜなら、たとい私はつねに一つの同じ認識に堅く固執することができないという弱さが私のうちにあることを経験するにしても、しかし私は注意深いそしてしばしば繰り返された省察によって、その必要があるたびごとに、かのことを想起し、そしてかようにして過たない或る習慣を得るようにすることができるのであるから。
 まさにこのことに人間の最大のそして主要な完全性は存するゆえに、私は今日の省察によって、誤謬と虚偽との原因を探究したのであるからして、少からぬものを獲得したと思量する。そして実にこの原因は私が説明したのとは別のものであることができない。なぜなら、判断を下すにあたって意志をば、ただ悟性によって意志に明晰に判明に示されるところのものにのみ及ぶように、制限するたびごとに、私が過つということはまったく生じ得ないからである。すべて明晰で判明な知覚は疑いもなく或るものであり、従って無から出てきたものであり得ず、かえって必然的に神を、私はいう、かの最も完全な、欺瞞者であることと相容れないところの神を、作者として有している、それゆえにかかる知覚は疑いもなく真である。また今日私は単に、決して過たないためには私は何を避くべきであるかを学んだのみでなく、同時にまた真理に達するためには何を為すべきであるかも学んだ。すなわち、もし私がただ私の完全に理解するすべてのものに十分に注意し、そしてこれを私のいっそう不分明にいっそう不明瞭に把捉する余のものから分離するならば、私は確かに真理に達するはずである。かくすることに私はこれからは注意深く努力しよう。
[#改丁]

     省察五

  物質的なものの本質について。そして再び
     神について、神は存在するということ。

 神の属性について、私自身のすなわち私の精神の本性について、私の探究すべき多くのことがなお残っている。しかしこれはおそらく他の機会に再び取り上げられるであろう。今は(真理に達するためには私は何を避くべきでありまた何を為すべきであるかに気づいた後)、過ぐる数日私の陥っていた懐疑から抜け出すことに努めるということ、そして物質的なものについて何か確実なものを得ることができるかどうかを見るということ、よりも緊要なことはないと思われる。
 しかも、何かかかる物質的なものが私の外に存在するかどうかを調べるに先立って、私はこのものの観念をば、それが私の思惟のうちにある限りにおいて、考察し、そしていったいそのうちのどれが判明であり、どれが不分明であるかを見なくてはならない。
 言うまでもなく私は量を判明に想像する、これを哲学者たちは普通に連続的なものと称している、すなわちこの量の、あるいはむしろ定量を有するものの、長さ、広さ及び深さにおける延長を判明に想像する。このうちにおいて私は種々の部分を数える、これらの部分に私は各種の大きさ、形体、位置、及び場所の運動を属せしめ、またこれらの運動に各種の特徴を属せしめる。
 また、単にこれらのものが、かように一般的に観られた場合、私にまったく知られていて分明であるのみではなく、さらにまた私は、注意するならば、形体について、数について、運動について、及びこれに類するものについて、無数の特殊的なものを知覚するのであって、その真理は極めて明瞭であり、また極めて私の本性に適合しているので、それを私が初めて発見するとき、或る新しいことを学ぶというよりはむしろすでに私が知っていたことを想起するかのごとくに思われる、言い換えると、夙《つと》に確かに私のうちに存したが以前にはそれに精神の眼を向わせなかったところのものに、私が初めて注意するかのごとくに思われるのである。
 そしてここに最も注目すべきことと私の考えるのは、たとい私の外にたぶんどこにも存在しないにしても、無であるとは言われ得ない或るものの無数の観念をば私が私のところで発見するということである。かかるものは、たとい私によって或る意味で随意に思惟せられるとはいえ、私によって構像せられるのではなく、かえって自己の真にして不変なる本性を有しているのである。かくて、例えば、私が三角形を想像するとき、たぶんかような形体は私の思惟の外に世界のうちどこにも存在せず、またかつて存在しなかったにしても、それには確かにそれの或る限定せられた本性、すなわち本質、すなわち形相があるのであって、これは不変にして永遠であり、私によって構像せられたものではなく、また私の精神に依存するものでもない。このことは、この三角形について種々の固有性が、すなわち、その三つの角は二直角に等しいということ、その最も大きな角に最も大きな辺が対するということ、及びこれに類することが、論証せられ得ることから明かである。これらの固有性は、たとい以前に私が三角形を想像したときには決して思惟しなかったにしても、今は欲するにせよ欲しないにせよ私の明晰に認知するところであり、従って私によって構像せられたものではない。
 なおまた、私はもちろん三角形の形体を有する物体をときどき見たのであるからして、この三角形の観念はおそらく外のものから感覚器官を介して私にやって来たのであろうと言っても、ことがらには関係がないのである。なぜなら私は、いつか感覚を介して私のうちに忍び込んだのではないかという疑いの何らあり得ないところの他の無数の形体を考え出すことができ、しかもこれについて、三角形についての場合にも劣らず、種々の固有性を論証することができるから。これらの固有性はすべて、実に私によって明晰に認識せられるからして、確かに真である、従ってまた或るものであり、純粋な無ではない。というのは、すべて真であるものは或るものであることは明かであり、また私が明晰に認識するすべてのものは真であることを私は既に十分に論証したのであるから。そしてまたたとい私がこれを論証しなかったにしても、少くとも私がそれを明晰に知覚する限りは、いずれにせよこのものに同意せざるを得ないということは、確かに私の精神の本性である。また私は、私がつねに、これより先、感覚の対象にはなはだしく執着していた時にさえも、この種の真理、すなわち形体とか、数とか、また算術もしくは幾何、あるいは一般に純粋なそして抽象的な数学に属する他のものについて、私が明証的に認知したところの真理をば、あらゆるもののうち最も確実なものと看做したということを想起するのである。
 ところで今、もし単に、私が或るものの観念を私の思惟から引き出してくることができるということから、このものに属すると私が明晰かつ判明に知覚する一切は、実際にこのものに属するということが帰結するとすれば、そこからまた神の存在を証明する論証を得ることができないであろうか。確かに私は神の観念を、すなわちこの上なく完全な実有の観念をば、何らかの形体または数の観念に劣らず、私のうちに発見する。また私は、つねに存在するということが、神の本性に属することをば、或る形体または数について私の論証するものがこの形体または数の本性にまた属することに劣らず、明晰かつ判明に理解する。従って、たとい過ぐる数日私の省察した一切が真でなかったにしても、神の存在は私のうちにこれまで数学上の真理があったのと少くとも同じ程度の確実性にあるのでなくてはならなかったであろう。
 もっとも、このことはたしかに、一見してはまったく分明ではなく、かえって或る詭弁の観を呈している。なぜなら、私は他のすべてのものにおいて存在を本質から区別することに慣れているゆえに、神の存在もまた神の本質から切り離されることができ、そしてかようにして神は存在しないものとして思惟せられることができる、と私は容易に自分を説得するからである。しかしながらいっそう注意深く考察するとき、神の存在が神の本質から分離せられ得ないことは、三角形の本質からその三つの角の大きさが二直角に等しいということが分離せられ得ず、あるいは山の観念から谷の観念が分離せら
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