が過つには、この目的のために神から賦与せられた或る能力が私に必要であるのではなく、かえって私が神から得ているところの真を判断する能力の私において無限でないことによって、私の過つことの生じるということを、理解するのである。
さりながら、このことは未だまったく私を満足させない。というのは、誤謬は純粋な否定ではなく、かえって欠存、すなわち何らかの仕方で私のうちに存しなくてはならなかった或る認識の欠乏であるからである。そして神の本性に注意するとき、その類において完全でない、すなわちそれに本来属すべき或る完全性の欠けている何らかの能力を神が私のうちに置いたということはあり得ないように思われる。なぜならもし、技術者がいっそう老練であればあるだけ、いよいよいっそう完全な作品が彼によって作り出されるとすれば、かの一切のものの最高の製作者によって、あらゆる点において完璧でない何ものが作られ得たであろうか。また神が私を決して過たないようなものとして創造し得たはずであるということは疑わしくないし、また神がつねに最も善いものを欲するはずであるということも疑わしくない。しからば、私が過つということは過たぬということよりもいっそう善いことででもあろうか。
これらのことをいっそう注意深く考量するならば、まず、その理由を私の理解しない或るものが神によって作られるとしても、私にとって驚くべきことではないということ、またおそらくそれが何故に、あるいはどういう仕方で、神によって作られたかを私の把握しないさらに或る他のもののあるのを私が経験するというわけで、神の存在について疑うべきではないということ、が心に浮かんでくるのである。なぜなら私は、私の本性が極めて薄弱で制限されたものであり、神の本性はこれに反して広大で、把握し得ぬ、無限なものであることを既に知っているから、このことからまた私は十分に、その原因の私には知られていない無数のことを神はなし能うということを知るからである。そしてこのただ一つの根拠から私は、目的から引き出されるのをつねとする原因の類の全体は物理的なものにおいて何らの適用をも有しない、と私は思量するのである。というのは、私が神の目的を探究し得ると考えるのは向う見ずのことであるから。
さらに、神の作品が完全なものであるかどうかを我々が尋求するたびごとに、或る一つの被造物を切り離してではなく、一切のものを全体として考察しなければならぬ、ということが心に浮んでくるのである。なぜなら、もしそれが単独であったら、おそらく正当に、極めて不完全なものと思われるものも、世界において部分の地位を有するものとしては極めて完全なものであるから。そしてたとい、私が一切のものについて疑おうと欲したことから、これまでのところ私と神とが存在するというほか何物も確実に認識しなかったにしても、しかし神の無辺の力に気づいたことから、他の多くのものが神によって作られたはずであり、あるいは少くとも作られ得るはずであり、かくして私はものの全体において部分の地位を占めるはずであるということを私は否定し得ないのである。
そこで、私自身にいっそう近く寄って、私の誤謬(これのみが或る不完全性を私のうちにおいて証するのである)がいったいどういうものであるかを探究すると、私は、これが二つの同時に一緒に働く原因に、言うまでもなく私のうちにある認識の能力と選択の能力すなわち自由意志とに、言い換えると悟性にと同時に意志に、依繋することを認める。というのは、単に悟性によっては私はただ観念を、それについて判断を下し得るところの観念を知覚するのみであり、そして厳密にかように観られた観念のうちには本来の意味におけるいかなる誤謬も見出されないから、なぜなら、たといたぶん、その観念が何ら私のうちに存しないところの無数のものが存在するにしても、しかし本来は、かかる観念が私に欠存していると言わるべきではなく、かえってただ否定的に、かかる観念を私は有していないと言わるべきであるからである。疑いもなく、神は私に与えたよりもいっそう大きな認識の能力を私に与えるべきであったと言うことを証明する何らの根拠も私は提供し得ないのであるから。そしてたとい私は神を老練な技術者であると理解するとはいえ、だからといって私は神が、自己の作品のいずれの箇々のうちにも、その或るもののうちに置き得るところのすべての完全性を、置くべきであったとは考えない。なおまた実に私は、十分に広くて完全な意志、すなわち意志の自由を私が神から授からなかったと訴えることはできない。なぜなら、私は実際、意志がいかなる制限によっても局限せられていないことを経験するのであるから。そして極めて注目すべきことと私に思われるのは、私のうちにはこれほど完全な、これほど大きなものは他には何もないので、私にはこれがさらにいっそう完全な、すなわちいっそう大きなものであり得るとは理解せられ得ないということである。というのは、例えば、もし私が理解の能力を考察するとすれば、私は直ちにそれが私のうちにおいてはなはだ小さくて、非常に有限なものであることを知り、そして同時に私は或る他の遥かにいっそう大きな、いな最も大きな、無限な能力の観念を作り、そして私がかかる能力の観念を作り得ることそのことから、私はかかる能力が神の本性に属することを知覚するからである。同じように、もし私が想起の能力あるいは想像の能力、あるいは何か他の能力を考査するとしても、決して私は、それが私のうちにおいて弱くて局限せられていて、神においては広大であることを私の理解しないものは何も発見しないのである。ただ意志すなわち意志の自由のみは、私はこれを私のうちにおいて何らいっそう大きなものの観念を捉え得ないほど大きなものとして経験するのであり、かくて私がいわば神の或る姿と像りを担うことを理解せしめる根拠は、主としてこの意志である。なぜならこの意志は神においては私のうちにおいてよりも、一方この意志に結びつけられていて、これをいっそう強固にし、いっそう有効にするところの、認識と力との点において、他方この意志がいっそう多くのものに拡げられるところから、その対象の点において、比較にならぬほどいっそう大きいとはいえ、しかしそれ自身において形相的にかつ厳密に観られるならば、いっそう大きいとは思われないから。意志というものはただ、我々が或る一つのことを為すもしくは為さぬ(言い換えると肯定するもしくは否定する、追求するもしくは忌避する)ことができるというところに存するからである、あるいはむしろそれはただ、悟性によって我々に呈示せられているものを我々が肯定しもしくは否定し、すなわち追求しもしくは忌避するにあたって、いかなる外的な力によってもそうするように決定せられてはいないと感じて、そうするように動かされるというところに存するからである。というのは、私が自由であるためには、私が一方の側にも他方の側にも動かされることができるということは必要でなく、かえって反対に、私が真と善との根拠をその側において明証的に理解するゆえにせよ、あるいは神が私の思惟の内部をそうするように処置するゆえにせよ、私の一方の側に傾くことが多ければ多いだけ、ますます自由に私はその側を選択するのであるから。実に神の聖寵も、自然的な認識も、決して自由を減少せしめるのではなく、かえってむしろこれを増大し、強化するのである。しかるに、何らの根拠も私を他方の側によりも一方の側にいっそう多く駆り立てない場合に私が経験するところの、かの不決定は、最も低い程度の自由であり、そして意志における完全性ではなくて、ただ認識における欠陥、すなわち或る否定を証示するのである。なぜなら、もし私がつねに何が真であり善であるかを明晰に見たならば、私は決していかなる判断をすべきかあるいはいかなる選択をすべきかについて躊躇しなかったはずであり、そしてかようにして、たといまったく自由であったにしても、決して不決定ではあり得なかったであろうから。
ところでこれらのことから私は次のことを知覚する。すなわち、私が神から授かっている意欲の力は、それ自身として観られた場合、私の誤謬の原因ではないということを。なぜなら、この力は極めて広くて、その類において完全であるから。また理解の力もそうではないということを。なぜなら、私はこの力を神から理解するために授かっているゆえに、私の理解するあらゆるものは、疑いもなく私はこれを正しく理解し、そしてこれにおいて私が過つということはあり得ないから。しからばどこから私の誤謬は生じるのであろうか。言うまでもなくただこの一つのことから、すなわち、意志は悟性よりもいっそう広い範囲に及ぶゆえに、私が意志を悟性と同じ範囲の内に限らないで、私の理解しないものにまでも広げるということからである。かかるものに対して意志は不決定であるゆえに、容易に意志は真と善とから逸脱し、かようにして私は過つと共にまた罪を犯すのである。
例えば、私がこの数日、何らかのものが世界のうちに存在するかどうかを考査し、そして私がこのことを考査するということそのことから私は存在するということが明証的に帰結するのを認めたとき、実に私は私のかくも明晰に理解することは真であると判断せざるを得なかったのである。これは、或る外的な力によってそうするように強要せられたというのではなく、かえって悟性のうちにおける大きな光から意志のうちにおける大きな傾向性が従ってきたゆえであって、かようにして私がそのことに対して不決定であることが少なければ少ないだけ、ますます多く私は自発的にそして自由にそのことを信じたのである。しかるに今、私は私が或る思惟するものである限りにおいて存在することを知っているのみでなく、さらにまた物体的本性の或る観念が私に現われている、そこで、私のうちにあるところのあるいはむしろ私自身であるところの思惟する本性が、かかる物体的本性とは別のものであるか、それとも両者は同一のものであるか、という疑いが生じてくる。そして私は、この一方を他方よりも多く私に説得する何らの根拠も未だ私の悟性に現われていないと仮定する。まさにこのことから確かに私は、両者のいずれを肯定すべきか若しくは否定すべきか、それともまたこのことについて何も判断を下すべきでないか、に対して不決定であるのである。
実にまたこの不決定は、単に悟性によってまったく何も認識せられないものに及ぶのみでなく、また一般に、意志がそれについて商量している時に当って悟性がそれを十分に分明に認識していないというすべてのものにも及ぶのである。なぜなら、たとい蓋然的な推測が私を一方の側へ引張るにしても、それが単に推測であって、確実なそして疑い得ぬ根拠ではないというただ一つの認識は、私の同意を反対の側へ動かすに十分であるから。このことを私はこの数日、以前に極めて真なるものと私の信じたすべてのものをば、この一つのこと、すなわちそれについて或る仕方で疑われ得ることがわかったといことによって、まったく偽なるものであると仮定したときに、十分に経験したのである。
ところで何が真であるかを十分に明晰に判明に知覚していない場合、もし実際私が判断を下すことを差し控えるならば、私のかくすることが正しく、私は過つことがないのは明かである。しかるにもし私が肯定するもしくは否定するならば、そのとき私は意志の自由を正しく使用していない、そしてもし偽である側に私を向わせるならば、明かに私は過つ、またもし他の側を掴んで、偶然に、なるほど真理に当りはするにしても、だからといって私は罪を免れないであろう。なぜなら、悟性の知覚がつねに意志の決定に先行しなくてはならぬことは、自然的な光によって明瞭であるから。そしてこの自由意志の正しくない使用のうちに誤謬の形相を構成するところのかの欠存が内在するのである。すなわち、欠存は、作用そのもののうちに、これが私から出てくる限りにおいて、内在するのであって、私が神から受取った能力のうち
前へ
次へ
全18ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
デカルト ルネ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング