れ得ないのと同じであることが明白になるのである。それゆえに、存在を欠いている(すなわち或る完全性を欠いている)神(すなわちこの上なく完全な実有)を思惟することは、谷を欠いている山を思惟することと同じく、矛盾である。
 けれども、私はもちろん谷なしに山を思惟し得ないごとく、存在するものとしてでなければ神を思惟し得ないにしても、しかし確実に、私が山を谷とともに思惟するということから、だからといって何らかの山が世界のうちに有るということは帰結しないごとく、私が神を存在するものとして思惟するということから、だからといって神が存在するということは帰結しないと思われるのである。というのは、私の思惟はものに対して何らの必然性をも賦課しないのであるから。また、たといいかなる馬も翼を有しないにしても、翼のある馬を想像することができるのと同じように、たといいかなる神も存在しないにしても、私はたぶん神に対して存在を構像することができるであろうから。
 否、詭弁はここにこそ潜んでいる。なぜなら、谷と共にでなければ山を思惟し得ないということからは、どこかに山と谷とが存在するということは帰結しないで、かえってただ、山と谷とは、それが存在するにせよ存在しないにせよ、互いに切り離され得ないということが帰結するのみであるが、しかし、存在するものとしてでなければ神を思惟し得ないということからは、存在は神から分離し得ないものであるということ、従って神は実際に存在するということが帰結するからである。私の思惟がこれをこのようにするというわけではない、すなわち何らかのものに或る必然性を賦課するというわけではない、かえって反対に、ものそのものの、すなわち神の存在の、必然性が、これをこのように思惟するように私を決定するからである。というのは、馬をば翼と共にでも翼なしにでも想像することが私にとって自由であるごとく、神をば存在を離れて(すなわちこの上なく完全な実有をば最大の完全性を離れて)思惟することは私にとって自由であるのではないから。
 なおまたここに、ひとは次のように言ってはならぬ、すなわち、神は一切の完全性を有すると私が措定した後においては、存在は実に完全性のうちの一つであるからして、たしかに神を存在するものとして私が措定すべきことは必然的であるが、しかし第一の措定は必然的なものではなかった、あたかもすべての四辺形は円に内接すると考えることは必然的ではなく、かえって私がこれをこのように考えると措定すれば、私は必然的に菱形は円に内接すると認めねばならないであろうが、これはしかし明かに偽である、ように、と。なぜというに、たといいつか神について私が思惟するに至ることは必然的ではないにしても、しかし第一のかつ最高の実有について思惟し、そして彼の観念をいわば私の精神の宝庫から引き出すことが起るたびごとに、私が彼にすべての完全性をば、たといその際私はそのすべてを数え上げず、またその箇々のものに注意しないにしても、属せしめるべきことは必然的であって、この必然性はまったく、後に、存在は完全性であることに私が気づくとき、私をして正当に、第一のかつ最高の実有は存在すると結論せしめるに十分であるからである。これはあたかも、私が何らかの三角形をいつか想像すべきことは必然的ではないが、しかし私が単に三つの角を有する直線で囲まれた図形を考察しようと欲するたびごとに、私がこの図形に、その三つの角は二直角よりも大きくないということを、たといその際私はまさにこのことに注意しないにしても、正当に推論せしめるところのものをば属せしめるべきことは必然的である、のと同様である。しかるに、いったいどのような図形が円に内接せしめられるかを私が考査するときには、すべての四辺形はこれに数えられると私が考えることは決して必然的ではない。否、私が明晰かつ判明に理解するものでなければ何ものも認容しようと欲しない限りは、私はかかるものを構像することさえ決してできないのである。従って、この種の偽の措定と私に生具する真の観念との間には大きな差異がある、そして後者の第一のかつ主要なものは神の観念である。なぜなら、実に、私は多くの仕方で、この観念が何か構像せられたもの、私の思惟に依存するもの、ではなく、かえって真にして不変なる本性のかたどりであることを理解するからである。すなわち、まず第一に、ただ神を除いて、その本質に存在が属するところのいかなる他のものも私によって考え出されることができないゆえに。次に、私は二つまたはそれ以上多数のこの種の神を理解することができないゆえに。そして、今かかる神が一つ存在すると措定すれば、彼は永遠からこのかた存在したし、また永遠に向って存続するであろうということが必然的であるのを私は明かに見るゆえに。そして最後に、私は神のうちに、その何ものも私によって引き去られることも変ぜられることもできないところの多くの他のものを知覚するゆえに。
 しかしともかく、私が結局どのような証明の根拠を使用するにしても、つねにこのこと、すなわちただ私が明晰かつ判明に知覚するもののみが私をまったく説得するということ、に帰著するのである。そしてたしかに、このように私が知覚するもののうち、或るものは何人にも容易にわかるにしても、他のものはしかしいっそう近く観察し注意深く研究する者によってでないと発見せられないが、しかし発見せられた後には、後者も前者に劣らず確実なものと思量せられるのである。例えば、直角三角形において、底辺上の正方形は他の二辺上の正方形の和に等しいということは、かかる底辺はこの三角形の最も大きな角に対するということほど容易にわからないにしても、ひとたび洞見せられた後には、後者に劣らず信じられるのである。ところで神について言えば、確かに、もし私が先入見によって蔽われていなかったならば、そしてもし私の思惟が感覚的なものの像によってまったく占められていなかったならば、私は何ものをも、神より先に、またはいっそう容易に、認知しなかったであろう。なぜなら、最高の実有があるということ、すなわちただそのもののみの本質に存在が属するところの神が存在するということよりも、何がいっそう、おのずから明かであるであろうか。
 そして、まさにこのことを知覚するために注意深い考察が私に必要だったとはいえ、今や私は単にこのことについて、他の最も確実と思われるすべてのことについてと同等に、確かであるのみでなく、さらにまた私は余のものの確実性がまさにこのことに、これを離れては何ものも決して完全に知られ得ないというように、懸っていることに気づくのである。
 すなわち、たとい私は、何らかのものを極めて明晰かつ判明に知覚する間は、これを真であると信ぜざるを得ないがごとき本性を有するにしても、しかしまた私は、精神の眼をつねに同じものに、これを明晰に知覚するために、定著し得ないごとき本性をも有するゆえに、しばしば以前に下した判断の記憶が蘇ってくる、そして、どういうわけでそのものをかように私が判断したかの根拠に十分に注意しないときには、他の根拠が持ち出されることができ、この根拠は私をして、もし私が神を知らなかったならば、容易に私の意見を捨てさせるであろう、そしてかようにして私は何ものについてもかつて真にして確実なる知識を有することなく、ただ漠然とした変り易い意見を有するにすぎないであろう。かようにして、例えば、私が三角形の本性を考察するとき、たしかに私には、もちろん私は幾何学の原理にいくらか通じているので、その三つの角が二直角に等しいということは極めて明証的に認められ、また私は、私がその論証に注意する間は、このことは真であると信ぜざるを得ないが、しかし私が精神の眼をこの論証から転じるや否や直ちに、たとい私はなおこれを極めて明晰に洞見したことを想起するにしても、もし実際私が神を知らなかったならば、このことは真であるかどうかを私が疑うようになるということは容易に起り得るのである。というのは私は、私が自然によって、極めて明証的に知覚すると私の考えるものにおいて時々過つがごときものとして作られているということをば、とりわけ後になって他の根拠にとって偽であると判断するに至らしめられたところの多くのものをしばしば真にして確実なるものと看做したということを想起するときには、自分に説得することができるから。
 しかるに私が神は有ると知覚した後には、――同時にまた私は余のすべてのものが神に懸っていること、また神は欺瞞者ではないことをも理解し、そしてそこから私の明晰にかつ判明に知覚するすべてのものは必然的に真であると論決したゆえに、――たとい私がどのようなわけでこのことは真であると判断したかの根拠に十分に注意しないにしても、ただ単に私がこのことを明晰かつ判明に洞見したことを想起するならば、私をして疑うようにさせるいかなる反対の根拠も持ち出され得ず、かえって私はこのことについて真にして確実なる知識を有するのである。否、単にこのことについてのみでなく、また私がかつて論証したと記憶するところの余のすべてのものについて、例えば幾何学に関すること及びこれに類するものについても、さうである。というのは、今やいかなる反対の根拠が私に対して持ち出されるであろうか。私がしばしば過つがごときものとして作られているということででもあろうか。しかし既に私は、私が分明に理解するものにおいては過ち得ないことを知っている。それとも私が後になって偽であるとわかったところの多くのものを他の時には真にして確実なるものと看做したということででもあろうか。しかしながら私はかくのごときものの何ものも明晰かつ判明に知覚したのではなく、かえって私はおそらく、真理のこの規則を知らなかったために、後になってそんなに堅固なものでないことを発見したところの他の原因によって信じたのである。しからば、ひとはなお何を言おうとするか。私はおそらく夢みているのだ(少し前に私が自分に反対して言ったように)、すなわち、私が今思惟するすべてのものは眠っているときに浮んでくるものより以上に真ではないのだ、とでも言うであろうか。否このこともまた何らことがらを変じない。なぜなら確かに、たとい私は夢みているにしても、もし何らかのものが私の悟性に明証的であるならば、このものはまったく真であるから。
 そしてかようにして私は一切の知識の確実性と真理性とがもっぱら真なる神の認識に懸っていることを明かに見るのである、従って、私が神を知らなかった以前は、私は他のいかなるものについても何ものも完全に知ることができなかったであろう。しかるに今や私には、一方神そのもの及び他の悟性的なものについて、他方また純粋数学の対象であるところの一切の物体的本性について、無数のものが明かに知られているもの、確実なものであり得るのである。
[#改丁]

     省察六

  物質的なものの存在並びに精神と身体との実在的な区別について。

 なお残っているのは、物質的なものが存在するかどうかを検討することである。そしてたしかに私は既に少くとも、それが、純粋数学の対象である限りにおいては、存在し得ることを知っている、たしかに私はそれをかかるものとしては明晰かつ判明に知覚するのであるから。なぜなら、神が私のこのように知覚し能うすべてのものを作り出す力を有することは疑われないことであり、また私は、どのようなものでも神によって、それを私が判明に知覚することは矛盾であるという理由によるほかは、決して作られ得ぬことはない、と判断したからである。さらに、私が物質的なものにかかずらう場合にそれを用いるのを私が経験するところの想像の能力からして、かかる物質的なものは存在するということが帰結するように思われる。というのは、想像力とはいったい何であるかをいっそう注意深く考察するとき、それは認識能力にまざまざと現前するところの、従って存在するところの物体に対する認識能力の或る適用以外のなにものでもな
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